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2016年8月

大峠から南大菩薩・黒岳へ ~56年を経て

2016年8月26日

この夏の天候不順はひどい。
なんでもかんでも地球温暖化のせいにするのも陳腐だが、こう毎年異常気象が続くとやはり原因は温室化効果かなと思うしかない。

トレーニング山行をしたいのだが、そんな経過で2週間も間が開いてしまった。
ようやく今日(25日)チャンスがきた。
行き先は大月市の北西にある大峠から
小金沢・黒岳1987m。
標高差は400m強。
普通のハイカーなら楽勝のレベルだが、再起途上の私には簡単にはクリアできないハードルである。

私が大菩薩嶺から南へ伸びる小金沢連嶺を北から南へ縦走し、黒岳に至り、ここで東に進路を変えて、今日のスタート地点ここ大峠に下りて来たのは今から56年前のこととなる。
今では大峠まで車道が通じているが、もちろん当時は違う。
大峠から大月近くの真木まで、木材搬出用の木馬道(きんまみち)が延々と続き、重い足を引きずってようやく真木のバス停にたどり着いた。

Img007  場所は別の所だが、これが木馬道
ソリに木材を積み馬がこれを引いた。
1960年ころから用途がなくなり、今日この実物を見ることはほとんど不可能であろう。

今日はその大峠から、あの日とは反対に、老いの身を重力に逆らって黒岳まで運び上げようとしてするものである。

Dscn6199 大峠から大菩薩南嶺の最南端、滝子山を見る。

Dscn6196 大峠の黒岳登山口~峠の風情は一変している。
この反対(背中)側には、昔の500円札の裏の富士山撮影地として有名な雁ヶ腹摺山の登山口がある。

56年前の記憶はおぼろげながら、登山道はかなり笹藪に覆われていたように記録には書いてある。
今は明瞭な登山道が通っている。
ただ、途中の1792m標高点(赤岩ノ丸というらしい)を通過してから不意に不明瞭になった。
紛らわしい赤テープに惑わされるが、尾根筋を外さなければ大きな間違いはしない。
・・・ここで私が少々の迷走をしたのは、赤岩ノ丸手前に右へ迂回することを示す標識を見落として直進したためである。

登山道は、登山口から終始一貫して急な登りがなく、クッション性の良い土の上を歩くので足に優しい。

Dscn6197 もしかしたら67年前に見たかもしれないが、もう少し後の標識と思われる。
それでも朽廃し文字の判読不能。

一貫して樹林帯を登るため、一度も眺望を得られないまま、黙々と歩き、大菩薩から黒岳に連なる主稜線に乗り上げた。

Dscn6198 一等三角点・黒岳 ~これで4度目になるかな・・・
以前と違い山頂回りの樹木が伐採されているので明るい雰囲気になってはいるが、相変わらず展望はない。

山頂までの所要時間はジャスト2時間。
昭文社登山地図では1時間半だから30分多くかかっている。
30%増しか・・・
昭文社地図のコースタイムは中高年にはおおむね妥当な値になっている。

私も1年前くらいまではなんとかそれをクリアできていた。

今日の結果は病み上がり、というハンディはあっても自身を納得させられるものではない。
やはり加齢による限界なんだろうか。
せめて20%増しくらいのレベルにしたいものだが・・・

登りも不本意だが、それにも増して深刻なのが下りであった。
おそらく薬がもたらす作用だろうが、体のバランスが悪くなっていて転倒が怖い。
血小板が低下しているため出血することは厳禁である。
転倒しないために勢い足の運びが慎重に、緩慢になる。
以前なら路面状態がよければ小走りしていたようなところでも
単にスピード低下ばかりでなく、上りより下りの方が足への負荷が大きい。
膝が笑い、今にも痙攣がおきそうである。
下り用の筋肉がまだできていないのだろうか?
結果として、下りの標準タイム1時間に対し、1時間40分もかかってしまった。
峠まで戻った時にはもう一歩も歩けないほど
ヘロヘロになっていた。

今日は28日の会山行のための足試しの意味があった。
しかし、この調子ではとても当日の800m近い標高差を下ることはできない。
帰宅してさっそくリーダーのM氏に参加取り消しの連絡をした。

まだまだ前途の楽観はできないことを痛感させられた山歩きであった。

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和田峠.古峠の探索と鷲ヶ峰

2016年8月17日

いまこの古い峠道は 新道ができてから
たれも通るものがなくなった
せきばくの中
二月末の夕陽が
ときいろに きらめいている

これは蔵原伸二郎の詩「峠路の道しるべ」の一部です。
このような峠は全国の至る所に散在していることでしょう。
こうした峠に漂う一種の哀感に惹かれる「峠」ファンは多いようです。
私もそうです。

今日(8月12日)尋ねた中山道・和田峠の「古峠」もその一つです。
その旧和田峠(古道)を探索し、前回途中までしか行けなかった鷲ヶ峰に登るのが今日の目的。
昨日の「山の日」から始まった盆休み。
どこもかしこも人・人・人そして車・車・車
こんな時は避けたいのですがもろもろの都合でそうもいきません。

さて先ず「古峠」の探索ですが、どうも地理院地図などいろいろな資料に当たっても正確な位置が掴めません。
とにかく現地で、と現在の和田峠へ。
峠に着いてから、車を走らせながら周辺を探って見ましたが「古峠」への入り口が見つかりません

丁度、峠の茶店「農の駅」の主が開店準備で外へ出ていたので教えてもらいました。
その峠の入口は車できた場合には先ず分かりません。
中山道の旧道を丹念に辿ってくれば自然に導かれるようになっているのですが、車で楽しようという横着者には簡単に門を開けてくれないようです。

峠への道はいかにも古道らしい素敵な雰囲気でした。
ただ、せっかくの舞台装置なのに自分の体調が思わしくありません。
2日前に抗ガン剤の点滴を受けました。
ドクターのいうことには抗ガン剤のような強い薬は、高齢者にはダメージがあるそうで、キットそのせいでしょう。

Dscn6165 ただ、峠までは20分ほどの上りなので何とかなります。

着いた古峠は期待通りの峠らしい峠でした。
峠には今でも生活道として使われるいるような名もないごくごく小さな峠もあれば、那須の大峠に見られるような広い広い開放的な峠もあります。

ここ「古峠」はその中間くらいで、中山道一の難所をどうにか上りつめヤレヤレと安堵して腰を下ろし、束の間の憩いを取るには格好です。

Dscn6167 この峠は霊峰・御嶽山の遥拝所で、かつての旅人はここに立ち、御嶽山に向かい合掌し、旅路の安寧を祈ったのでしょう。
今日は夏雲に包まれているので御嶽山の姿を拝むことができません。

峠からの戻り道での思案・・・
今日の体調で鷲ヶ峰に登るのはムリだろうな・・・どうする・・・
その時、天啓のように(大げさな・・・)一つのアイディアが閃きました。

和田峠から鷲ヶ峰への登山道が、限りなくビーナスラインに接近する所があります。

その辺りに駐車ができれば和田峠から登るより時間を短縮して登ることができます。
ズルイがその方法で鷲ヶ峰の山頂まで少しでも近づき、ギブアップしたところで引き返せばいいだろう・・・

Dscn6170 遠くないところに鷲ヶ峰の山頂が見えます。

普通ならどうってことのない行程なんです。

Dscn6172 振り返ると先日登った三峰山(右)とブロ友・岳さんお勧めの「二つ山」が見えます。
それにしてもビーナスラインのひっかき傷跡は無残です。
開通してから半世紀以上経つでしょうが、自然の復元力をもってしても傷跡は消えません。

苦しくなっているのですが、何とか足が動いてくれるので、もう少し、もう少し、と進みます。

山頂手前に急登があり、たまたま交差した人が”ここからがキツイですよ”と。
聞きたくはなかったんですが・・・
それでもここまで来ればもう戻る選択はありません。

Dscn6173 山頂 ~意外にも人影はまばらでした。

田次郎の『鷲ヶ峰物語』では山頂付近に2体の石仏があることになっているのですが、見当たりません。

Dscn6174 山は辛うじてお隣の車山が見えるだけです。

Dscn6177 八島湿原を俯瞰

鷲ヶ峰から八島湿原への下りは砂礫でいかにも滑りやすいものです。
十分注意しているつもりでしたが、何と左足が4度もスリップしました。
そのたびに膝、肘に擦過傷を負い、左足首を捻ってしまいました。
これほどスリップした経験はこれまでありません。
やはり薬の作用でバランスがとても悪くなっているせいでしょう・・・
それにしてもどうして左足ばかりが滑るのか・・・

~そう思っていましたが、帰宅してから靴を点検すると、左足踵のトレッドパターン(溝)がまるで摩耗していました。
タイヤでいえば「坊主」の状態です。
これが度重なるスリップの主たる原因でしょう。

人と車で溢れかえっている霧ヶ峰を久しぶりに横断しましたが、どこにも立ち寄る気が起きず、真っ直ぐに山荘へ戻りました。

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幻の書『鹿島槍研究』が書棚にやってきた

2016年8月8日

念じ続けていればほしい本はいつかは必ず手に入る・・・
これまでも実際その通りになっていたが、それでもどうしても今日まで叶えられなかった、いわば私には幻の書とでも言える一冊があった。
吉田二郎著『鹿島槍研究』 (昭和32年 朋文堂発刊)がそれである。

Img004 戦後の登山界にあって、昭和20年代の『岳人』や『山と渓谷』などを舞台に華々しい執筆活躍をしていた吉田二郎が、彼自身の鹿島槍の北壁(カクネ里、荒沢奥壁など)の初登攀記録などを含めて、鹿島槍の登攀記の集大成となる力作である。

P5031844 鹿島槍 北壁 ~2010年5月 遠見尾根から。
鹿島槍北峰とカクネ里の間が北壁で、一時期幾つものヴァリエーションルートの初登攀争いが展開された。


その吉田二郎が後述するようなある事件が契機となり、忽然と登山界から消えて以来、この書も幻の本と化してしまった。

齢80を過ぎ、収集した膨大な山岳書の始末を考えているこのごろではあるが、この期に及んでも叶えられないものなら、とほとんど諦めていたのに思いがけないことからいとも簡単に手元にやってきた。

私同様に高齢になり身辺の整理をしている畏敬する会友のM・Uさんが、書籍の整理のためリストを公開した。
何とその中に私にとって久恋の一書『鹿島槍研究』が載っていたのである。
このような、見ようによっては黴が生えているような古色蒼然とした本には誰も見向きもしない、とは思いながら私が大急ぎで手を挙げたことは言うまでもない。
さすがにUさん、私などよりはるかに濃密な登山をしてきただけに、蔵書も一廉のものであった。
会に人多しといえど、文武両道といえるのはUさんに止めをさす。
氏は某職域山岳会の中心メンバーとして岸壁登攀や冬のアルプスでの登山歴を誇りながら、一方、博覧強記にして、今なお日本語やエッセイの教師をしていることからもうかがえるとおり、格調高い文章、エッセイを発表している。

昭和33年、当時の日本登山界にあって最も突出していた先鋭クライマーを糾合した「第二次RCC」が発足した。
戦前からの岸壁登攀の先駆者・藤木三郎を拝戴はしているが、実質的に会をリードしたのは「奥山ラッパ」の異称を持った奥山 章であり、「吉田ブシ」と言われた吉田二郎であった。
実践派にして、理論家の吉田二郎の盛名は不動のものと思われていた。
その彼の揺るぎない地位が突然降って湧いたようなできごとで瓦解することとなる。
その衝撃的な告発文は『岳人』137号(1959・9月号)に掲載された。
内容は吉田が所属していた山岳会「登嶺会」が、彼の登攀記録の8つが偽りのものであり、会の記録から抹消する、というものである。
とうぜん彼からの弁明はあったが、その内容はとても客観的に納得がえられるものではなく、彼は「このような登山界に愛想がつきた」といわば捨て台詞を残してフッツリと姿を消した。
同時に『鹿島槍研究』も幻の本になってしまった。

Img007 吉田二郎のもう一冊の単行本。

登山界からは姿を消したが、吉田二郎は決して死んではいなかった。
筆の立つ彼は「松山荘二」のペンネームで週刊誌などで達者なルポを書いて生業としていたようである。

そして彼のライフワークともいえる『古書髭「したよし」の記』を2003年3月に上梓したところ、各書評欄で好評を得られた。
仲間たちの肝いりで3月23日に出版記念会が開かれることが決まっていたが、その10日前の13日急性心不全で急逝してしまった。
享年72歳。

Img013

「したよしの記」は彼の祖父が御徒町で営んでいた「吉田書店」の盛衰をドキュメントに仕立てたものである。
扱うものは俳書、浄瑠璃本、黄表紙、洒落本などに限った特異な古書店で、古書店界では一定の地位を占めていた。
森鴎外、永井荷風、正岡子規、勝海舟など文人などが店の常連だった。
戦後の混乱期も何とかしのいできたが、1994(平成6)年三代目の死去によって店の幕は閉じられた。
本来であれば4代目になるべき二郎(松山荘二)はもともと書店経営には関心がなく、一時期阿佐ヶ谷で真似事みたいなこともしたが、永続きするはずもなくその灯もやがて消えてしまう。
この一書は彼の父祖に対する鎮魂の賦であり、償いでもあるのだろう。

そろそろ山との縁も切れようかという最晩年になって、長年探し求めていた「この一書」を手にできた喜びと共に、一人の岳人の数奇な運命に思いを馳せてみた。

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三峰山に寄り道し美ヶ原へ

2016年8月4

美ヶ原には何度か行っているが、たった一度の登山を除いてあとはドライブである。
そのたった一度の登山は58年前のことになる。
その当時率いていたハイキングクラブの行事で、32人が参加している。
どこをどう歩いたのか記憶は風化しているが、記録によれば大屋駅からバスで巣栗まで行き、そこから白樺平を経由し、今の美ヶ原高原美術館の辺りを通り「山本小屋」に入っている。

Img012 その時泊まった山本小屋。
山本小屋の母屋はすでにあったのだが、団体はこのカマボコ型の小屋に泊められた。
今、私が山仲間と集合写真を撮ると中高年ばかりだが、このころはご覧の通り全員が20歳台である。
このメンバーの中で未だに山から離れられないのは私だけになってしまった。
うたた今昔の感が強い。


観光地化しているここに山登りで行くことはなさそうだが、今の山本小屋辺りがどんなふうに変わっているのか見ておきたい、というのが今日の主たる目的。

和田峠でビーナスライン(どうにも好きになれない呼称だが・・・)を霧ケ峰と反対に右折する。
行きがけの駄賃のつもりで「三峰山」1888mに登っておこう。
と言っても、駐車場所の「三峰茶屋」から1時間ほどで往復できる。

Dscn6095 振り返り見下ろす「三峰茶屋」

山頂に至る草原からのロケーションの素晴らしさといったらなかった。
この景観には一度で虜(とりこ)になってしまった。
八ヶ岳や南アルプスの頂稜に雪が載ったころ絶対に再訪するぞ、と心に誓った。

Dscn6096 南アルプス~左から甲斐駒、北岳、仙丈

山頂から西へ岳さんご推薦の「二ツ山」への山道が続いているが、大きなアップダウンの連続で、2時間以上かかるとあれば、今の私には歯が立たない。

Dscn6099 三峰山の山頂

車に戻り 美ヶ原へ向かう。
先ず高原美術館へ。
一度入っているので今日はオモチャ箱をひっくり返したような全体を俯瞰するだけでスルーした。

Dscn6109
美ヶ原の中心地、山本小屋の駐車場へ。
日曜なのでワンサカ車が入ってきているが、何とかスペースを確保できた。

Dscn6110 この原の類まれな景観美を発見し、世に知らしめるため笹小屋を基地にして開発に当たった山本俊一の像。
俊一はそれまで牧場としては利用されていたが、観光地としては顧りみられることがなかったこの地を、今や日本有数の人気スポットにした始祖である。

草小屋を建てのが昭和5年のことだからほぼ90年前のことになる。
ただ、美ヶ原の歴史は古く、黒曜石の流通経路として利用されたりして、交通の要衝だったようである。
江戸時代中期にはには「美ヶ原」という呼称が初めて登場し、明治の末期には牧場が開かれている。

Dscn6114 風に弄られるタカネナデシコ。
花弁があまりにも繊細なので、風が吹くと髪の毛が乱れるようになる。
モネの「日傘をさす夫人」のスカーフが風になびいている様子と重なり合う。

Dscn6120 今の山本小屋の外観 ~もっと瀟洒な高原ホテル風に改築されているものと想像していたが、むしろ山小屋に近い。

Dscn6115 高原の一角にたつ「美しの塔」が見えてくる。
あの時は深い霧の中だったので、このように遠望したわけではなかったが、とてつもなく懐かしいものに再会したようで、不覚にも胸を突き上げてくるものがあった。

Dscn6118 尾崎喜八の詩「美ガ原溶岩台地」のレリーフが埋め込まれている。
   登りついて不意にひらけた眼前の風景に
   しばらくは世界の天井が抜けたかと思う。  
(以下略)

Dscn6122 高原の一角からの蓼科山~八ヶ岳・赤岳

Dscn6126 美ヶ原からの下り道の途中でカモシカの母子連れを見かけた。
カモシカそのものは何度も見かけているが、母子連れは初めてである。
車の往来が激しい車道を悠々と横切っていた。
往来する車も一時停止して観察。
車を降りると驚かせてしまうかと、乗ったままで写したが思うようなショットは得られなかった。

Dscn6129 中山道の和田宿に下り「和田宿本陣」の見学をする。
皇女和宮が徳川家にご降嫁されるときにここに宿泊している。
その時の一行は約8万人というから、何とも豪奢できらびやかな嫁入りだったのか。
ちなみに嫁入り荷物は東海道で運んだそうだから、何故、和宮一行がわざわざ難路になる中山道を経由したのか、興味をそそる。
東海道が足止めがあったりして、時間が計れないことなどが理由で中山道を辿った、ということらしい。

これまで何となく遠隔地という気がして足が向かなかった美ヶ原界隈であるが、山荘からなら片道150kmほどである。
幾つか興味をもったコースがあるのでもう少し通ってみたい。

私の粗忽さが原因でまだ「工事中」の段階で間違ってアップしてしまいました。
醜態をお詫びする次第です。
これが一応完成形です。

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