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2015年11月

古賀志山 ~サンショウは小粒でも・・・

2015年11月30日

日光と鹿沼の間に標高583mの
古賀志山という里山があります。
身の丈は低いのですが、スリリングな岩場を抱えていて、千変万化のコースがとれるのが人気で、地元で愛され親しまれている山のようです。
一昨日の降雪でようやく関東北部の中級山岳も白く装いました。
日光表連峰(男体山~大真名子~帝釈山~女峰山~赤薙山の連なりを昔はこう呼んでいたのですが、今でもそれで通用するのでしょうか・・・)が雪で白くなったら見に行く山として予定していたので、チャンス到来とばかり出かけたのが28日(土)のことです。

Dscn5187 日の出がすっかり遅くなり、山荘を出たころはようやく雪化粧した上信の山々がまだ茜色にそまっていました。
山荘から渡良瀬川沿いに足尾に出て「日足トンネル」を抜けると白い日光の山が見えるようになります。
半年ぶりに見る雪山で、この状態がせめて昼まで続くよう、こんな時だけの神頼みします。
清滝で「日光・宇都宮道路」に入ろうとしたらガーン、何とマラソン大会とやらで走行禁止です。
”聞いてないよ!”と正直ムッとしたが、どうにもなりません。
地理不案内のところでキョロキョロしながらもどうにか古賀志山の麓に着きました。

Dscn5188 南面から見る古賀志山ですが、右の端がどうやらそれらしいです。
市営駐車場に着くと30台ほどのキャパのあるスペースはほぼ一杯の状態です。
さすが人気者のようですね。

Dscn5189 スタートして30分ほどで着く不動ノ滝 ~クライミングのゲレンデになっているそうで、何人かが取り着いていました。
ここから沢道になるようですが、足元が荒れていてルートが判然としません。
フト右手を見ると笹の中にハッキリした登山道があり、これが正規の登山道と判断し、尾根の方へ上がりました。
道はその先で再びクライミングゲレンデの下を通り抜けます。
その先でフッと道型が消えてしまいました。
どうやらルートミスをしたようで、引き返すしかないかな、と思案をはじめたとき、前方にかすかな道型を見つけました。
このコースは携えている地図にはないのですが、最終的には南コースに突き当たるだろうと予想しそのまま進みます。
左上の直ぐそこには尾根が並行しているので、そこへ直上できれば手っ取り早いのですが、急な岩場が続いているのでうかつには取り着けません。
さらに進むと木の幹にホンの小さなプレートが取り付けてあるのが目につきました。
見ると、私が今歩いているのは「岩下道」でそこから上に向けて
「猪落」(後刻「ししおとし」と読むことを教わりましたが・・・)を経由して尾根に出られるらしいことが分かりました。
猪も落ちる?・・・何となく危険な匂いがする文字ですが、注意を促すようなことは書いてないので、ここを登ることにします。
急な斜面を登ると程なく露岩の尾根になりました。

Dscn5191
岩稜の傾斜は緩く、スタンスもあるので難儀なことはありませんが、両側は削ぎ落ちているので高度感はあります。

Dscn5192 上から岩稜を見下ろしたところ。

Dscn5193 中間部に「猪落」の標識がありました。
露岩帯が終わると雑木林になり、すぐに縦走路にでました。
右へ少しの登りで古賀志山の山頂です。

Dscn5194 展望がないのでそそくさと戻り、御嶽山に向かいます。
猪落の分岐で一人の高齢者がそちらに向かっていきました。
”いのしし落とし、を下りるのですか?”と尋ねると
”しし落とし、というのですよ。もとは地名(字名)らしいですよ”と教えてくれました。
この山をホームグランドにしている精通者なんですね、キット・・・。
それにしても「猪落」は登るのはいいとしても、下降には使いたくないな、あの高度感では・・・。
途中、短い梯子登りはあったが、予想していたような難所はなく拍子抜けするくらいアッササリと御嶽山560mに着きました。

Dscn5200

Dscn5196 何とか間に合って男体山(左端)から女峰山までが見渡せました。
雪の付き方は十分ではないものの、初手としてはこれで満足しましょう。

Dscn5197 足尾の山々の向こうにはピラミダルな皇海山も何とか見えています。
北の方角の塩原・高原山には雪が見えません。
しかし、こうしてグルリと見渡していると、あの山この山ほとんどの山に足跡を残してきていることが蘇ります。
長いこと山歩きをしてきている賜物ですが、世の中の役にはまるでなっていませんから、自慢できることではありません。

素直に不動の滝コースを下り、車に戻り軽い山歩きは終了です。

Dscn5203 再び山麓からの古賀志山。
左端の赤岩山?あたりに盛んにパラグラーダーが舞っています。

今日だけの印象では、山荘から近い岩山として「岩櫃山」がありますが、岩場歩きの規模と面白さでは岩櫃の方が優っていると思いました。
猪落で幾らかは古賀志山らしさを体感しましたが、それがなかったら”つまらい山”ということでしかなかったでしょう。

Dscn5144 こちらがJR吾妻線沿線にある岩櫃山です。

ところがこうした印象がいかに皮相なものであるかはネットで見る古賀志山賛歌の数々で知ることができます。
NPO法人「古賀志山を守ろう会」すらあるほどで、熱狂的なファンが多く、懐の深い幸せな山のようです。
再認識するため、片道で2時間半ほど要する道程ですが、再訪する要がありそうです。

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赤城のトンガリ山は「和久土地山」だった

2015年11月25日

気がつけばあちこちのスタンドでガソリン価格がL120円を割り込んでいる。
シェールオイルの出現に狼狽した産油国が増産にシフトした上に、中国の経済停滞で原油のダブツキがつのるばかりの現象で、長いこと高い石油製品に悩まされてきた消費者にとっては内心、痛快事である。

痛快といえば「下町ロケット」がその見本で、滅多にTVドラマを見ない私だが、次回が待ちどおしい思いを久し振りに味わっている。
下町ロケットは大人のお伽噺だが、物造り日本の面目躍如たる本物の痛快事が立て続けにあった。
まずは11日の三菱重工による
国産小型ジェット旅客機「MRJ」(ミツビシ・リージョナル・ジェット)の試験飛行の成功である。

Amrj

戦後の一時期、米国による製造禁止措置により、日本での航空機製造技術は大きく失速してしまった。
禁止は程なく解除されたものの、かつては隼、ゼロ戦など世界の頂点に立った名機を輩出した日本の技術が戻る道は、閉ざされたも同様な状態になっていた。
そんなどん底からプロペラのYS11が一時空に舞ったが、それも50年前に姿を消してしまった。
長い雌伏の中で不死鳥のようによみがえったMRJではあるが、このまま巡航速度を維持できる保証はない。
飛行する空にははるか先に先行する2社がたちはだかっている。
MRJがそれに追いつき追い越し、世界中の空に羽ばたく姿を想像している。

Ah2a

それに次いで24日には改良型H2Aロケット29号の打ち上げが成功した。
国産ロケットによる初の商業衛星で、この分野でも日本は国際競争に遅れているがビジネスの世界で大輪の花を開いてほしい。

さて、暫くぶりの山ブログになる。
赤城山を真北方向から見ると位置にもよるが黒檜を隠して鋭く尖った山が否応なく目に付く。
国土地理院の地形図には1400Mの三角点表記がされてはいるが山名は記されていない。
長いこと気にしているのだが、名無しでは不便なので私は便宜的にその山容から
「トンガリ山」としていた。
それがごく最近になって、日常的に閲覧しているブログでその名前を知ることとなった。

和久土地山としているが別名として孫黒檜山、鷹ノ巣山などもある。
地形図には破線が描かれているのだが、登山の対象になっていないこの山に「道」などあろうはずはない、と思っている。
24日、久し振りに青空が期待できそうなので出かけた。

Dscn5178 赤城・北面道路からトンガリ山(自称)
もう少し北へ離れた位置から見るとトンガリが際立つ。
見えている側の真後ろに登路がある。

Dscn5177 取り付き点の北面道路・ヒカリゴケ駐車場

Dscn5168 駐車場の道路反対側にある擁壁の右(南)側のフェンスとの隙間から入り込む。

Dscn5169 適当に高いほうへ上って行くと程なく驚いたことに薄いものながら道型があるではないか。
地形図には描かれているのだから、あるのが当たり前かもしれないが、これには意表を衝かれた。
何のための道型なんだろうか。
登山のためはありえない、やはり林業か・・・

Dscn5176 沢の源頭をつめて尾根に載ると向かい側に「小黒檜山」へ繋がる尾根が見える。
以前、あの尾根を左から右へ、一人でラッセルしながら辿り、黒檜山を目指したが、右端の小黒檜でギブ・アップしたことがある。
以来、ご無沙汰をしているし、再び試みることもないだろう。

Dscn5174 尾根には依然としてかそけき踏み跡。

Dscn5171 山頂近くになると転石がいくらか・・・

Dscn5172 いともアッサリとただひたすらうら寂しい山頂に着いた。
ウカツなことに三角点の確認を忘れてしまった。

Dscn5173 県下のいたるところの忘れられた山で見かけるプレート。
この山の名前を絞るとすれば私は「鷹ノ巣山」を推す。
山の名前には地元に密着した固有の文化がある。
この山の足元には「鷹巣」という地名があり「鷹ノ巣橋」もあることからすれば地域で「鷹ノ巣山」と呼称したことは想像に難くない。
和久土地の由来は不明なので評価できないが、孫黒檜とするのはかなり無理筋だろう。
黒檜山とは地形的なつながりはないし、そもそも小黒檜はあるが、子黒檜はないのだから「孫」が存在しうる余地はないわけである。

その詮索は置くとして宿題が一つ片付いた。
超ジミな山歩きで、見栄えのする画像は一枚もない。
それでも自分としては意味のある山行なのであえてアップすることとした。
それにしても赤城山を歩き尽くす、なんて意気込んではいるものの、赤城もなかなか大きく、かつ手強い。

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映画「エベレスト」 ~デスゾーンの悲劇

2015年11月18日

1996年5月10日「死の匂いがする」といわれるエベレストのサウスコル付近にて、二つの公募隊の登頂者が猛吹雪に見舞われる。
その結果エベレスト登山史上初めての9名という大量遭難死者をだすという悲劇となった。
その中には、田部井淳子さんに次いで日本人女性として二人目の登頂を果たした
難波康子さん(47歳)も含まれていた。

難波さんは登頂には成功したものの、サウスコルまで辛うじて下りて来たが疲労と寒気と強風のため力尽き、斃れた。

前夜、8千m近い第四キャンプを出たロブ・ホールが率いる「アドベンチャー・コンサルタンツ」とスコット・フィッシャーが率いる「マウンテン・マッドネス」隊、それに台湾ティームがエベレスト山頂を目指した。
3つのパーティの隊長、ガイド、シェルパ、参加者が山頂を目指したため、難所のヒラリーステップなど至るところで渋滞が発生した。
また当然、参加者の登山力に違いがあったこと、あるべき固定ロープが張られていなかったことなどの誤算が重なり登山のペースが著しく遅れた。
その結果としてそれぞれの疲労が倍加され、酸素ボンベは不足し、天候の急変につかまるという最悪の事態を迎えることとなる。
荒れ狂う吹雪の中で懸命の脱出が続き、献身的な働きのあまり体力を使い果たした両隊長を始め次々と動けなくなる脱落者が出てきて悲劇が始まった。

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難波さんはロブ・ホール隊に800万円近い費用を払って参加した。
小柄で華奢な体つきの口数が少ない女性、と評された難波さんは、登山の世界で特に知られていた存在ではなかった。
むしろ平凡な主婦として、勤労者としてごく普通の生活者だった。それが気がつけばいつの間にかいわゆる「セブン・サミッツ」と言われる七大陸最高峰の内六峰に登っていて、エベレストはその集大成になるべきところまで到達していた。

Img017 南極大陸最高峰のビンソン・マシフ4897m登頂時の難波さん。

この映画はロブ・ホール隊に参加し、比較的順調に登頂を果たしたジョン・クラカワー(ルポライター・登山家)が徹底した取材に基づいて著した書『空へ』にもとづいてつくられている。

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クラカワーはフィッシャー隊ガイドのアナトリ・ブクレーエフが酸素を吸入しないままで登山したことや、遭難者の救出活動に消極的だったことなどを、この本の中で批判的に書いている。
それについてブクレーエフは『デスゾーン』で反論し、両者の対立は抜き差しならないところまでに展開することとなる。
そのブクレーエフはこの悲劇から一年余り経過した1997・12 アンナ・プルナで雪崩にあい39歳の生涯を終えることとなる。

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IMAXプラス3Dという、現在求め得る一番臨場感のある画面を再現できる方法で音響効果と共にその迫力には眠気も吹っ飛ぶ。
高度感たっぷりのシーンでは恐怖心すら湧いてくる。
このところの内外の山岳映画にはやや物足りなさを感じていたが、ようやく「アイガー北壁」を越える作品が出現した思いである。

Img012 この書はロブ・ホール隊に参加していて、サウスコルで最後まで難波さんの傍らにいて二人とも力尽き、死んだものとして見放されたベック・ウェザースの奇蹟的の生還記である。

やや余談になるが、フィッシャーズ隊にはヒマラヤ登山史上の伝説の男、ピート・ショーニングの名前がある。
ヒマラヤ登山を語るとき単に
「あのビレー」というだけで通じる神の業としかいいようのない出来事があった。
1953年(エベレスト初登頂の年)K2に挑んでいた米国隊は隊員ギルギーが血栓静脈炎症を発症し、隊員たちは彼を救うため猛吹雪の中決死の脱出を図る。
7600m付近の45度ほどの急斜面を下る困難を極める撤退の時、一人の隊員が滑落し他の5人を巻きこんだ。
その時、一番若いショーニングはギルギーを確保しながら、滑落していく隊員たちを一人で食い止めたのである。
滑落は50m~100mに及び、10mmのロープが5mmほどなるほど伸びた。
隊員たちから「7600mで五人を止められるのなら4500mなら何人とめられるのかい。どうやったんだい?」と聞かれショーニングは「運が良かった」とだけ答えている。

強者ショーニングもこの登山に参加した時は68歳になっていた。ドクターチェックで、心臓の拍動に異常が見つかり、結局第二キャンプ6500mから上には行けず涙を飲んだ。
ショーニングをガイドする立場になった一人、ニール・ベイドルマンは「わたしのような者がショーニングを案内するなんておこがましい。同じ隊にいられるだけで光栄なことだ」と語っている。

私の感想としては、これまで山岳映画の中で最も出来栄えの良かった「アイガー北壁」を凌駕するものと思える。

あの日「デスゾーン」で起きた筆舌に尽くせないドラマを再現するには2時間余の映画では余りに短すぎる。

 

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季節のアンソロジー ~十一月

2015年11月12日

きさらぎの 天のまほらは 花野かな
    差し招く如 風花は舞う   / 冬道 麻子

この一首が詠われたのはきさらぎ(2月)であるが、わが草庵あたりでで最初に風花が舞うのはおおむね11月である。
低気圧が東に抜けて、西高東低の気圧配置になると上越国境の稜線は灰色の厚い雪雲に包まれる。
このころの雪はおおかたは水上辺りまでしか降らないが、季節風の吹き出しが強いと、風に煽られて白い天からの使者が舞い狂いながらわが草庵あたりまで飛んでくる。
薄日の差す中で白い花びらたちはしばらく空中を乱舞して地表に降り立ち、その姿を留めるいとまもなく姿を消してしまう。

風花を運ぶ北西からの乾いた季節風は木枯らし(凩) とも・・・     

こがらし  / 新川 和江
    こがらしが吹き過ぎて行ったのは
    街路樹の梢と枝と  家々の軒先ばかり?
    いいえ わたしの髪と肩と
    それから心にもかくじつに触って行った  
(以下略)
もう一つ木枯らしの詩で八木重吉の「冬」を。
    木枯らしが吹く
    じっと物事を我慢していると
    自分が磨かれてゆくような気がする

木枯らしの中で自分を磨こうと我慢していると、磨かれる前に低体温症になってしまいそうで・・・なんて散文的なことを言うから私は詩人になれないのだ。

木枯らしの吹く情景でどうしても触れておきたい名文がある。
戦後の山の名著というとたいていの人が真っ先に挙げる山口 耀久
さんの『北八ッ彷徨』から
「・・・そのとき急に風が吹きはじめた、とでも思えるような突然の激しさだった。あっ、と驚くようなすばやさで、いきなり風景の転調がおこなわれた。静止していた落葉松林がいっせいに動いた。私たちは足を止め、息をのんだ。小広い平地になってひらけたその峠は、風と雪と、乱れ飛ぶ落葉松の落ち葉の、すさまじい狂乱の舞台だった。風に吹き払われる落葉松の葉が、舞い狂う雪と一緒にいちめんに空を飛び散っていた。滅びるものは滅びなければならぬ。一切の執着を絶て!(中略) 秋は終わった。」

Img189
私も長い山歩きの間には同じような情景に出あっている。
しかし私の鈍いセンサーはこのように感応しないし、ましてやこのような情景をこのような緊張感に満ちた文章で描写することはできない。

♪ 遠い山から吹いてくる こさむい風にゆれながら
     けだかく清くにおう花 きれいな野菊 うすむらさきよ ♪               

取り立てた理由はないのに好きな小学唱歌で、季節になるとつい口ずさむ歌である。
この情景には私の幼いころの郷愁を呼びさますものがある。
そのころの私にとっての遠い山とは・・・
母なる赤城山は目の前にあるので「遠い山」ではない。
果てしないと思うほど続く桑畑の果て遠く、茜色の地平にシルエットを浮かび登らせている浅間山こそが遠い山であった。

野菊という特定種はなく、関東一帯ではカントウヨメナ、ノコンギク、ユウガギクをなどがそう呼ばれている。

A
伊藤左千夫の原作『野菊の墓』を木下恵介が映画化した「野菊のごとき君なりき」が公開されたのは1955年。
私は早稲田の映画館で嗚咽をこらえながら観た。 

A     A_2         Photo
映画で「民子」役を演じた有田紀子さんはこの物語の薄幸な少女役にピッタリだった。
その後、彼女が映画界でどのような地位を占めたのか、スクリーンで再見することはなかった。
彼女以後「野菊」が似合う少女は日本から消えてしまったようだ。

11月の気象用語で良く知られているのは「小春日和」であろう。
小春は旧暦での十月の別称で、現行暦では晩秋から初冬にあたる。
『徒然草』では「十月は小春の天気」と書かれている。
小春日和を「インディアン・サマー」と呼ぶことも知られていることだが、この二つを結び付けたのは日本アルプス開拓期に貢献のあった東大名誉教授B・H・チェンバレン。

冬の装いに変わって明るくなった山荘でわずかに秋の名残りを留めているのがムラサキシキブ。
雷鳴も 嵐も過ぎて 花枯れし 
      野につぶらなり 紫の珠  大伴 道子

A
紫式部とは全く関係ない。
枝に重なり合って着いている実を「シキミ」というそうであるが、ムラサキシキミをいつしかムラサキシキブと誤って呼んで定着したものと考えられている。

尾崎喜八は 「晩秋」と題する詩で十一月をこう詠っている。
    
つめたい地にうつる十一月の雲と青ぞら
    たえず降る緋色のもみぢが水をつゞる
    遠く山野を枯らす信濃のきたかぜ
    もう消えることのない連山の雪のかゞやき。

Img014

そう、連山が消えることのない雪で耀く季節がそこまで来ている。

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雨坊主山 ~名前はオチャラケているけど

2015年11月8日

山歩きでも「掘り出しものだった」と思うことがある。
まだその山頂を踏んでいない、というそれだけの理由で登った山が、その非礼にもかかわらず、シンと胸に染み入るものを与えてくれることがあり”いい山歩きができた”と思えるときである。

今日(5日)歩いた「雨坊主山=あめんぼうず山」1295mもそんな山だった。
この一風変わった名前の山は、映画「人間の証明」の舞台になる「霧積温泉」の北6kmほどのところにある。
近くにある「はまゆう山荘」のスタッフブログによると「この山に雲がかかると雨になる」というのが山名の由来だとある。
また「ドドメキの頭」とか「かながき山」など、こちらも理解不能な別名があるようだ。

Dscn2998 これは昨年5月、雨坊主山の真北にある「笹塒(ささとや)山」から撮影したもので、件のアメンボーは左端にある。
この界隈の山は、おおかた山頂を踏んでいるが、雨坊主は残ったままなのが気になっていたので”片付けておこう”という程度の、軽い気持ちで向かった。

そんな風で特別な期待していなかった。
それが実際に歩き終えたら、紅葉はお見事だったし、人一人出会わない(クマとの遭遇の可能性のほうが高い・・・)静寂さも、塵一つ落ちていない清潔な山道も実に気分が良かった。

このエリア一帯は以前、三洋電気が森林浴用に開発したらしいが今は放置状態で、標識は肝腎なところであらかたは倒壊し、木段は朽廃し、路肩が脆くなっていたりで危険な部位も多く、山慣れた人向きで、その分手ごたえのある山歩きができる。

Static 本日のコース~ピストンなので記録上は山頂がG(ゴール)になっている。

Dscn5107 登山口の広場に建っている案内板。
今朝は車のフロントガラスが凍るほど冷え込んだが、日陰のこのスタート地点は半年以上忘れていた寒さだった。

Dscn5110 梢を透かして角落山のシルエットが見える。
あの山頂に立ったのは何年前のことになるのか・・・

Dscn5113 植林帯は短く、直ぐに自然林に入り、日が当たるようになり寒さから解放された。
標高千m前後のこの辺りが紅葉の見ごろのようで、終始華やかな彩りに包まれた山道であった。
おそらく一秋の間にも数えるほどのハイカーしか入らないこの山で、無数の広葉樹が人知れず装い、散っていき、程なく長い眠りに入る。

Dscn5114

Dscn5116 途中の大きな岩の下の凹地に建っている案内板は注意を促すものであった。
恐らくクマがかじったものとものと思われる傷がついているが、たくさんの標識の残骸も犯人は同じだろう。

Dscn5121

Dscn5118 今朝丸山(左)と人の横顔のような中垣岩(右) ~登っていない山がまだまだゴロゴロしている。

Dscn5125

夢見心地のうちに(イヤイヤ、実際には息を荒げ、重い足を引きながら・・・)角落山と雨坊主を結ぶ尾根に乗る。

Dscn5137 樹木の間に胸が透くような三角錐の雨坊主山。
登れるのか?と思うくらいな鋭く立ち上がっている。

Dscn5135 どうやらカモシカの落し物らしい。
さらに先には熊の置き土産もあったが臭いも映りそうなので?撮影するのは見合わせた。
気休めにホイッスルを吹いたりしたがはたして森のクマさんに届いたろうか。

Dscn5128 四つん這いになる山頂直下では誰もが適当に登路を選んでいるようで、踏み跡が乱れている。
急な直登を避けて右にトラバースしたら小さなテラス状の岩の上に出た。
これまで閉ざされていた視界が一気に開けた。
”浅間ジャン!”思わず声を挙げた。
こんな展望スポットがあるとは意表を衝かれた。
ネットの記事でもこの地点の記述は見かけない。
ここには気付かないままに登っているということだろうか?

Dscn5129 浅間隠山~この山には「矢筈山」の別名がある。
この位置からだと独立峰に見えるが、視角が変わると「矢筈」そのままに小さく鋭い双耳峰に見えるのである。

ここから山頂までは一投足だった。

Dscn5131 小さな石祠がポツンと置かれているだけの静寂な山頂。
木にくくりつけられている山名板文字は消えていることも、この山に訪れる人の少なさを物語っている。

この山は、頂上圏はもちろん、全体的にかなり険しいが、ロープ、クサリ、梯子などの人工的補助手段は全くない。
従って登降にはかなり神経を消耗させられるが、これはこれで潔く、気持ちよいものだ。

Dscn5120

今日あたりも名残りの紅葉を追いかけて名所とされる場所には人が押し寄せていることだろう。
かたや、こんな見捨てられたような山でも木々は誰れに褒められることを求めずにひっそりと装っている。
「人のいく 裏に道あり 花の山」か~日本の秋山は懐が深い

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御前山 ~リハビリ山行はこれにて打ち止め

2015年11月2日

標高七百mの山里は11月ともなればもう晩秋の気配が濃い。
朝からのけぶるような小糠雨がもみじした葉を落とし、落とした葉を濡らしている。

Dscn5091       Dscn5092

ヴェルレーヌのような心境で、ひねもす音楽に聴き入っている。

九月中旬から始めたリハビリ山行も今日(10月30日)の御前山で一応終了とする。
標高差400mあたりから徐々にハードルを上げてきて、700m前後をクリアすれば、一応回復できたことにしようと考えていた。
今日がほぼそのメドになるため・・・。

奥多摩三山の一つ御前山1405mへのルートは幾つかあり、それぞれなかなか手強いが、その中では今日の栃寄からの周回コースが一番楽。

Static 本日の行程 ~例によってスマホの電池が3時間ほどで寿命が尽き、ログも尻切れになってしまった。

登山口になる、武田家の落人が開いたとされる栃寄には、瓜生 卓造著『奥多摩町異聞』によると1982年当時で民家が4軒あったことになっているが、今は明らかな廃屋を含め住まいと思われるのは見当たらない。
ただ「奥多摩都民の森」の関連施設があるので、人の気配はある。
この「都民の森」にどの程度、その名に値するだけの都民が訪れているかは知らないが、この施設があるので廃村化を免れていると思われる。

Dscn5070 栃寄集落上のスタート地点~車はここから先へは入れないが立派な車道はさらに上に延びている。

Dscn5072 登山道の一帯は「体験の森」になっていて蜘蛛の巣状態に遊歩道が張り巡らされている。
ここは散策の起点になる広場。

Dscn5071 ここで登山道は車道から離れて山へ入る・・・はずだったのだが、何と車道とほぼ並行していてほどなくその車道に下りてしまった。
この先の登山道は台風による倒木の散乱で通行禁止で、しばらくは蛇行する車道を辿ることになる。

Dscn5073 ここでようやく車道から解放され、右手の登山道に入る。

Dscn5074 御前山から北へ延びる尾根に乗る。

Dscn5075 この尾根の秋はまだまだ浅い。
奥多摩ファンには叱られそうだが、こと紅葉に関しては他地域に比べてかなり見劣りするように思える。
それともたまたまタイミングが悪かったのに過ぎないのか・・・。

Dscn5076 御前山避難小屋が見えてきた。
内部は大変キレイで一夜を過ごすのも快適そうだ。

Dscn5080 山頂 ~ただでさえ見るべきものが乏しいのに、雨が降ってきそうな空模様になったので早々に下山する。

Dscn5082 
この秋は他の山でそこそこ紅葉を愛でることができているので、この程度でも不平はない。

Dscn5085 直進する西の惣岳山との鞍部で右折して「体験の森」へ下る周回ルートに入る。

Dscn5087 下山の途中にある水場。
次々に現れる「体験の森」のポストを通過して下る。

Dscn5090 筋肉痛を起こしそうな急降下を続けてスタート地点近くの林道に降りついた。

今日はただ一人の後続者に途中で追い抜かれ、アッというまもなく後ろ姿が見えなくなるほど鈍足を思い知らされた。
ヘタレな脚にはもうこれ以上の期待はかけまい。
これが今の自分の力なのだから、それに見合った山歩きを続けるしかないだろう。
負け惜しみをいうようだが、それでもまだまだ十分楽しめる山がたくさん待っていてくれる。

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