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2015年8月

夏の終わりのよしなごと

2015年8月29日

なんか夏いっちゃいそうですね・・・
あの熱気、誰が吸い取ってしまったのでしょうか?

日本陸上界に突如(でもないかも知れなが・・・)超新星が耀き始めた。
いうまでもなく短距離の
サニブラウン・ハキーム選手のこと。
16歳での200mタイムがかのウサイン・ボルトの16歳時を上まっているという破天荒さである。

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期待の大きい桐生選手が足踏み状態なのを見ても早熟型の才能が伸び悩む例が多いが、彼には是非大成してほしいものだ。
日本人に苦手な瞬発力や跳躍力を上げるためにはアフリカ諸国との混血が欠かせない条件に思える。
欧米の選手には黒人が多い現状を見れば日本もいつまで純血主義にとらわれているべきではないだろう。
血が混じるということは両者の優性がブレンドされてより優れたものが生まれる可能性が期待できることである。
~その逆もあるかも知れないが・・・

某日、日本山岳会に処分する山の本を持ち込んだ。
身辺にありふれる「物」を少しづつでも減らしていくことを心がけている。
書物はその最たるもので、山岳会での恒例の「図書交換会」に出品するためである。

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冊数は50ほどで、蔵書の1%になるかならないか程度だから、減量効果はゼロに等しいが、何もしないよりは増しだろう。

27日、リハビリ開始のつもりでもっともイージーなコースで高尾山を歩いた。
もちろん空白が長いからヘタレはしかたない。
これからコツコツと可能な限り原状回復を目指したい。
山を下りてから先日オープンしたばかりの
「高尾599ミュージアム」に立ち寄ってみた。
高尾をオシャレにしていく先駆なのか、瀟洒な外観。

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アクリル樹脂に封入された花の標本が綺麗だが、サンプル数にはやや不満足。

昨夜は京王プラザホテルで開かれた日本山岳界の重鎮「神崎忠男氏を労う会」に出席

Photo 雛壇上の山岳会のお歴々~右端が神崎氏。

Photo_2 田部井淳子さん~エベレスト女性初登頂の前に不安に心が揺れていたとき”大丈夫、登れるよ”と神崎氏に励まされたことが忘れられない、と語った。

神崎氏はこの6月、4年間その任にあった「日本山岳協会」会長を退任した。
その前は「日本山岳会」の副会長を務めた。
日本での登山組織の頂点の要職を長く務めたその労をねぎらう集いである。
私もその末席を汚した、という次第。
ご本人は堅苦しい役職とは縁遠い、山男の典型とも言える磊落(らいらく)でありながら、細やかな気配りもできる実に魅力的な人柄である。
それゆえに人を引きつける磁力があり、今宵の席も270人ほどが出席するほど盛大なものであった。

在来の組織からは離れるが、本人は至って意気軒昂。
もう一段、スケールの大きい組織を構想しているようで、それがどんなものになって現れるか楽しみである。

自民党総裁選は無投票での安倍さんの再選が事実上決まった。
自民党(だけではないが・・・)の人材枯渇ここに極まれり、という現象。
かつての「三角大福中」時代のダイナミズムはどこへやら。
小選挙区制が自民党にも中央政権化をもたらしてしまった。
こうなると派閥が力を持ち得る中選挙区制のほうがより増し、という思いがしてくるから、統治の制度というものがいかに難問であるかを思い知らされる。

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高校野球とうな重と~関係ないんですが・・・

2015年8月22日

戦争に行きたくない、とい若者を「エゴの塊」などとトンチンカンな批判をしたM議員、なんと金の亡者さながらの詐欺まがいのことで自民党を離党した。
自民党は唯々諾々とこれを受理したが、全くことの重大さを理解していない対応である。
ここは除名処分をすることが正しい作法であろう。
あるいは自ら議員辞職をするのが至当だが、それだけ己を律する心根があればそもそもこのような愚かし振る舞いはすまい。
このような、国会議員以前に人としてやってはいけないことをした薄汚い議員を選んだ選挙民にも責任がある。
次の選挙にでたら選挙区の有権者は良識をもって,このような唾棄すべき者を断固排除していただきたい。
少しでもましな議員を増やすには選挙民と政党の厳しい選別が必要なのだ。

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こんな話題にするだけで穢らわしいこととは対極にある甲子園の熱戦が幕を下ろした。
どこにも出かけられない蟄居状態の無聊をひたむきな球児たちが慰めてくれた。 
100年の節目の高校野球はことしもまた数々の印象深いシーンを残して
終わった。
お盆の帰省と重なるこの国民的行事は、誰にでも一時、故郷を思う時間を与えてくれる。
県予選から一度も負けなかったたった一校が、一度しか負けなかった4千校近いチームの頂点にたった。
今年は西低東高が顕著だったが、どこでもいいが東北勢に優勝して欲しかった。
手が届くところまできていて、またしても深紅の優勝旗は白河の関を越えることができなかった。

炎暑がやや落ち着いたので時期遅れのうなぎを銀座で。
私は勤め先に近かったことがあって専らうなぎは築地の「宮川」で食べていた。
というのはウソで通常は大衆価格の「神田登亭」で、特別な日が「宮川」だった。
銀座四丁目交差点にある、
江戸時代からの老舗「竹葉亭」のことはよく知っていたが、ここで食べた記憶がない。
そこで今日は、このところ半身不随?みたいな私の世話をかけっぱなしに家内の労に報いるために・・・

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注文してから出される時間が意外なほど短かった。
それで、これは蒸すという工程が省かれているのかな?と邪推したりした。
そのせいかふっくら感に乏しく思えた。
食後の感想としては「宮川に一日の長あり」というものであった。
久しぶりの外出で疲れを感じ、銀座をブラつく気も起らず帰宅。

結局、体調不良のため明日からの木曽駒~宝剣山行は見合わせた。
リーダー代行を押し付けたSさん始め参加者に迷惑かけこととなり、情けない自分に嫌悪感をも覚える。

元の状態に戻れるまでどれくらいかかるかな・・・

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私の八月十五日

2015年8月15日

70年前の今日の空の青さは今でも鮮やかに思い出せる。
どこまでも突き抜けそうで「蒼穹」という言葉そのものの、深くて高い空が日本の上に広がっていた。
そして、12時の玉音放送が終わって暫くしてから周囲が妙にシンと静まりかえってしまったことも・・・。
戦争が終わったという安堵感と虚脱感と、この先どうなるのかという不安がないまぜになって大人たちを無口にさせたのだろう。

しかし11歳、国民学校5年生の私には、そんな大人の世界とは無縁のところで、夢中で一つことに励んでいた。

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その日、私は朝のうちからウキウキしていて、私の家から西へ5kmほど離れた母の生家のほうへ向かっていた。
兄が引くリヤカーのあとについて登り気味の、埃っぽい県道を行く私の足取りはさぞかし軽かっただろう。
私と、兄弟以上に仲良しだったおないどしの従兄弟が自転車を貸してくれることになり、それを受け取りに向かっていたのであった。
従兄弟の一家は前橋市から母の生家近くに疎開していた。
その従兄弟が疎開先で自転車を自在に乗りまわしているのが羨ましくてならなかった。
どうしてその自転車を借りられることになったのか、その経緯は記憶にない。
おそらく私が母にそんなことを言い、妹になる従兄弟の母親に話をしたのだろう。

借り受けた自転車をリヤカーに乗せ、赤城山が背になるので下りになる県道を家に戻った。

帰宅すると私はさっそく庭先で自転車乗りの練習に夢中になった。
私の家には玉音放送を聞くために近所の人たちが集まり始めていた。
そうした人々をよそに、いくらか自転車を漕げるようになった私は家を離れて遠乗りに出かけた。

Img004 『われら腕白小僧』~石井美千子 作

練習を一休みしているとき、フッとあたり一帯が妙にシンとしているのに気付いた。
そのわけは誰かの説明で分かった。
”そうか、戦争が終わったんだ”
その意味するものが何かほとんど理解できないものの、何かが自分の中で脱落するものがあった。
夏休みが終わり、2学期が始まったある日の授業で先生が”日本がどう変わったのか?”という質問をした。
私は直ぐに手を挙げ”軍国主義から民主主義に変わりました”と答えた。
誰かの受け売りで、自分ではほとんど理解していない付け焼刃。
それが何よりの証拠に、それから暫くして自分が、生涯でただ一度グレた日々をおくるようになっていた。

それにしてもどうしてあの日の空はあんなに真っ青だったのだろうか。
素晴らしい夏の晴天だった、だけで片付けられないものがあったように思えてしかたない。

ところで帯状疱疹などという妙な症状が発症してから一ヶ月が経った。
疱疹のほうは7割がた消えた。
しかし、目に見えない神経痛ははかばかしく好転せず、指先の麻痺、シビレや腕の重ったるさが残っていて鬱陶しい。
ペットボトルのキャップが何とか開けられるようにはなったが、腕の力は半分程度だろう。

日々の生活で体力の低下が実感されているので、どの程度のものか自重していた山歩きを再開してみた。

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リハビリのつもりで赤城のショートコースを選んで登ってみたが、体力低下は歴然としていた。
山歩きのブランクのせいだけではなく自力そのものが衰えている。
疲れるだけではなく、右腕全体にビリビリとシビレ感が出るのは、まだ神経の回復が十分ではなく、体に負荷がかかるとそうなるらしい。

まだしばらく辛抱が続くだろう。

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「日本のいちばん長い日」を観て・・・

2015年8月11日

映画「日本のいちばん長い日」を観た。
昭和20年、戦争終結を決定した政府に対し、これを阻止しようとする青年将校による「宮城事件」を題材にして緊迫感に包まれた136分。
いつもの居眠りを忘れ、画面に釘付けになっていた。
最近いわゆる「玉音放送」のオリジナル盤が発見され、最後の御前会議が開かれた壕内の写真の公開などで関心が高まっている。
この映画を観るためには、題材になった「宮城事件」についてそうとう予習をしておかないと、ストーリの中にスンナリと入っていけないおそれがある。

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この映画は1967年に谷口千吉監督、三船敏郎などのキャスティングで作成されたもののリメーク版である。
メガホンをとった原田真人監督が製作の動機をラジオで次のように語っていたのを聴いて、わが意を得たりの思いをした。
「私は戦争映画が、やたらに目を剥いたり、絶叫する過剰な演技に違和感を覚えていて、もっと自然体での映画を作ろうと思い立った・・・」と。
私があまり時代劇を観ないのも全く同じ理由で、判で押したような紋切り型の大時代な演技にどうしてもなじめないためである。
どうして演出家は十年一日のごとく、時代劇とはこうあらねばならないというワンパターンの演技を役者に強いているのだろうか。
もちろん全部がそうだということではなく、たとえばTVでの「三屋清左衛門残日録」のように演技の抑制のきいた佳品もたくさんあるのではあるが・・・。

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昭和16年12月の開戦から半年の間の日本軍の進攻は目を見張るような赫赫(かくかく)たるものだったが、ミッドゥエーの海戦での惨敗が転機で守勢一方に変わり、重要な作戦でことごとく敗北する戦局になった。
昭和20年、遂に沖縄の上陸を許し、2発の原爆投下でいよいよや国の存続が危うくなる窮地に陥っていた。
開戦当初から、いかに戦争を終結させるかは考えていた政府だが、ズルズルと判断を遅らせ、徒に犠牲者を増やすばかりだったが、さすがに連合国からポツダム宣言の受諾を迫られ、これを受け入れるしかない局面に追い込まれていた。
この期に及んでなお「一億玉砕」を叫ぶ軍部の抵抗の中で、天皇の聖断により宣言の受諾を決定し、8月15日正午の、いわゆる「玉音放送」によって、天皇が直接、国民に広く訴えることにこぎ着けた。

しかし、この期に及んでなお一億玉砕を叫び、本土決戦を迫る陸軍の若手将校たちは、クーデータによって宮城を占拠し、玉音放送の音盤を奪取しようとして宮城になだれ込んだ。
軍幹部を突き上げての彼らの無謀な試みはさいわいにして不成功に終わった。

もし、彼ら青年将校たちの狂気じみたクーデータが成就していたら、国土は文字通り焦土と化し、戦争の犠牲者は国の存続すらおぼつかないほどの数に登っていたであろう。

満州事変以来の陸軍の暴走と、それを止められなかった政治やマスコミの無力による国の悲劇が、遅きに失したがようやく聖断によって紙一重の差で終止符を打てて、辛うじて国体は存続し、疲弊のどん底から這い上り今に至っているのである。

映画には当然だが天皇、鈴木首相など当時の枢要人物が登場するが、その一人阿南惟畿(これちか)陸相だけが玉音放送前に自決する。

A 役所広司が演じる阿南陸相

阿南は天皇の侍従武官として仕えた経歴もあって、戦争を終えたいとする天皇の心中は理解しながらも、本土決戦を主張して止まない陸軍を代表する立場でもあり、クーデータに走る狂気の青年将校の心情にもシンパシーを抱き、心中の葛藤はいかばかりだったろうか。
さらにまた、満州事変以来、国の進路をミスリードし続けてきた軍部の責任を最後の陸相としてとったのだろうか。
東条英機の女々しい振る舞いにくらべ、武人の面影を感じる。

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これは白川一郎画伯による「最後の御前会議」の模様。
この会議の記録は画像はおろか、文章の記録も無いそうだ。
白川画伯は正確な画像記録を残すべしと考え、17年後から宮内省の協力のもと、出席者の一人ひとりにあたり、丹念に記憶をつなぎ合わせてこの絵を完成させた、ということである。

一握りの軍部の暴走のあげく、日本人だけでも320万人の死者をだし、国民を塗炭の苦しみに陥れた戦争の愚かさ加減を思えば、
日本が再び「いつかきた道」をたどることは万が一にもないと思いたいが、平和な70年の間の歩みの間にも絶えずその懸念がつきまとっている。
政権与党の未熟な代議士が、上から目線でエラソウに若者たちの戦争忌避を非難したりしている。
私にはこうした言動がかつての青年将校と二重写しになって見えてしかたがない。
過去に学べないこの手の未熟者にはISとの戦争の最前線にでも参加させ、戦争がどんなものか一度体験させたらいい。

今、成立目前の安保法制を、政権は「戦争の抑止力」と説明しているが、同時に「戦争ができる国」にすることは間違いない。
この平和な70年の間に、時の政権は「合憲」の範囲をミリ単位でジワジワと拡大してきていて、気がつけば非戦闘地域とはいえ自衛隊が出動するところまできている。
今は違憲とする見方が圧倒的に多いにもかかわらず、後方支援の範囲とはいえ、集団的自衛権を合憲とするムリ筋の安保法案が成立寸前で、またまた合憲の範囲を拡張しようとしている。

あの戦争は多大な犠牲者の上に、多くの教訓を残している。
この映画もその一つになるであろう。

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季節のアンソロジー ~八月

2015年8月7日

多くの日本人にとっては八月は思い出すのも辛い出来事が多い月である。
とりわけ、1940年くらいまでに生まれた世代の心には太平洋戦争のことは程度の差はあっても、何らかの痕跡が刻まれているだろう。
私は戦火からは遠いところにいた、無邪気な軍国少年だったから、戦争の惨禍とは無縁であったが・・・。
その惨禍の数々を少しづつ知るようになるのはずいぶん後のことである。
とりわけ、日本での最初で最後になった沖縄での地上戦の悲劇は映画「ひめゆりの塔」で知った。
そしてもう一つの沖縄で、森山良子さんが歌った「さとうきび畑」からも、戦争がもたらす静かな哀しみを教えられた。

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この長大な曲は反戦を声高に叫ぶものではないが、広いさとうきび畑を”ざわわ ざわわ・・・”と風が通り抜けるように、戦いの悲しみが心にひたひたと沁みてくる。
そして沖縄は今も戦争の影に苦しめられている。

国民的な夏の風物詩といえる高校野球のもその影は落ちている。
今年の大会は第一回大会から100年目になるが、大会の回数は97回。
もちろん大戦時に開催されないことが3回あったためである。
野球の技を堪能するならプロ野球だが、清清しさ、ひたむきさは甲子園でしか得られない。
毎回、感動の名シーンを生んでいるが、私が分かっていながら涙が出てしまう場面がある。
大会歌のマーチに乗って代表各校の入場行進があり、勢揃いすると、一斉にホームベースを目指して前進するあのシーン・・・。

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わけの分からない思いが衝きあげてきて、いつも不覚にも涙をこぼしてしまうが、ラジオから同じことをリスナーの声として紹介された。
余談になるが「栄冠は君に輝く」は格調の高い歌詞もさることながら、古関祐而の曲が卓越している。
古関は実に多彩な作曲家で、どんなジャンルにも名曲を残しているが、最高傑作として差支えない、と私は思っている。

お花畠     尾崎 喜八
     いちばん楽しかつた時を考えると
     高山の花のあひだで暮らした
     あの透明な美酒のやうな幸福の
     夏の幾日がおもはれる     (以下略 旧仮名のまま)
夏の高山のお花畑には至福が充ちている。
花の方はただ子孫を残すための営為をしてるだけなのに、人間の方が勝手に感動している。

A

八月の石にすがりて      伊藤 静雄
     八月の石にすがりて
     さち多き蝶ぞ、 いま、 息たゆる。
     わが運命(さだめ)を知りしのち
     たれかよくこの烈しき
     夏の陽光のなかに生きむ。    (以下略)
生命が燃え盛る真夏でも息絶える蝶がいる。

このころ山野を彩るのは月見草。
私たちの多くが「月見草」としているのは「マツヨイグサ」あるいは「オオマツヨイグサ」であることは今では常識になっている。
両者の混同には太宰治の「富士には月見草がよく似合う」やら竹久夢二の「宵待草」も一役買っているであろう。

A マツヨイグサ    

A_2 本来の「月見草」~自生種は絶滅

 

月見草は歌にもよく歌われ、特に「月見草の歌」は知る方がおおいだろうが、私の愛唱するのはもう一つの「月見草」である。
♪ 夕霧こめし草山に ほのかに咲きぬ黄なる花
    都の友と去年(こぞ)の夏 手折り暮らしし思い出の
     花よ花よ その名もゆかし月見草 ♪
作詞:勝田 香月    作曲:長谷川 良夫 
感傷的過ぎるかもしれないが、歌い継がれる歌の本質は「叙情」にあると確信している私にはピッタリする。  

夏の終わりに一抹の哀愁を覚えたのは少年のころだったか・・・
いつのまにか日が短くなっていて、遊び呆けている間にあたりが暗くなってきた。
ヒグラシが鳴く。
残り少ない夏休みなのに、宿題はあらかた残っている。
そんなことが頭の端をよぎりながら、家路を急ぐ・・・。

井上 陽水の「少年時代」は、歌詞としては判然とはしないのだが、私は夏の終わりの一種の哀感を覚える。
♪ 夏が過ぎ風あざみ 誰のあこがれにさまよう
     青空に残された 私の心は夏模様 ・・・♪

 

堀 辰雄に「晩夏」という随筆とも旅の記ともつかない作品がある。
夏の終わりに妻と二人で野尻湖への小さな旅をした回想記である。
ある日、湖畔を二人で前後しながら歩いているとき不意に「ツヴァイザムカイトZweisamKeit !というドイツ語が堀の口を衝いてでる。
孤独の淋しさではない、二人差し向かいの淋しさを感じたのである。

A

ずいぶん昔のことで、季節は晩夏ではなく晩秋になるが気のあう山仲間の女性と二人で晩秋の奥武蔵の尾根を歩いたことがあった。
なぜか普段は饒舌な彼女の口数が減り、もともと口数の少ない私とで黙って歩いた。
足元に咲き残りのリンドウが咲いていて、私はそのとき辰雄のいう「ツヴァイザムカイト」という言葉を頭に浮かべていた。

炎熱地獄とも言いたい猛暑のさなかなのに、指先が滑り晩夏にまで及んでしまった。

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まさかの「帯状疱疹」でした!

2015年8月1日

ここ10日間ほどパソコンの恩恵を感じたことはなかった、と思っています。
右手がほとんど使えない状態になり、ささやかな人生でもそれなりに記録に残したいことがあっても,現状は
文字として書くことができないのです。
何とかキーボードは打てるので、パソコンに入力することで代用でき、急場をしのいでいられるからです。

前触れなしで突如襲ってきた変調の犯人は「帯状疱疹」でした
どういう医院に行けばいいのか判断に迷ったのですが、とりあえず右手の掌や腕などにできた赤い発疹から皮膚科にいってみました。
ドクターは症状を一目診て「帯状疱疹」といとも簡単に診断を下しました。
帯状疱疹・・・???
私には200%予想できていなかった病名でした。

ただそれは、私がその病気についての知識が皆無だったために虚を衝かれた思いをしただけで、見る人が診れば一目で分かる典型的な症状を呈していたようです。
体の片側だけに発赤する発疹や、痛み(神経痛)を伴うことなどで・・・。

それなのに、発赤の症状に留意しないで、腕の痛みを筋肉痛だと、思い込んで、やってはいけない患部を冷やすことに専念していたのですね。
~無知は恐ろしい・・・

昨日、2度目の診察をしたところ、発疹そのものは終息しつつあり、もう薬の服用は必要ない、ということでした。 

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お見苦しいものですが、疱疹は後退していてほとんど瘡蓋(かさぶた)になっています。

なのに、なぜ右手に痛みやシビレが残り、思うように使えないのか?
右脇腹の鈍い痛みがあるのか?

ドクターの説明では、それは帯状疱疹の後遺症である神経痛とのことです。
脇腹の痛みは「肋間神経痛」なのだそうです。
帯状疱疹に罹患した場合に厄介なことは、外的症状が治まってからも後を引く「神経痛」だということでした。
時間がかかるようです。

それならそれで仕方ないことですから自身の治癒力に期待するしかありません。一番気になることは、下旬に木曽駒から宝剣岳を繋いで歩く計画があることです。
宝剣の通過は鎖場の連続です。
技術的には難しくないのですが、右手に力が入らない状態のままではクリアできません。

このまま長引くようなことになればリーダーを代わってもらわなくてはならないでしょう。

それにしても、神経痛が出ることが分かっているのに、これに対処する薬は無いんですね。

私は年初に「リンパ腫」の疑いが見つかり、いちおう経過観察の状態にあり、このたびのことで人並みに病気体験を積み重ねつつあります。

炎暑のうえにこんなありさまで、引き籠もりの日常をよぎなくされています。
勢い所在なくTVを観る時間が多くなり、多くの高齢者同様のありふれた日常の仲間入りです。
せめていくらかは積読を消化しておきたい、とこうした本を傍らにおいて拾い読みをしています。

Img001  ベストセラーでしたね。
原発問題、人口減少、東京一極化、地方の疲弊化などに打つ手が無い、かのような閉塞状況に風穴が開くかも知れない、これまでの常識を180度変える視点からの新しい胎動の幾つかの例示。
もし、ここに例示されたような小さな一粒が、全国の至るところで生まれたら、やがてその集合が大きな「葡萄の房」=クラスターになり、新しい日本の姿が生まれるかも知れない、という期待を持たせてもらえました。

Img002 金子みすゞはともかく「清水澄子」さんという詩人(の卵?)ことは初めて知りました。
上田市に生まれ、1925年」、15歳という若さでみすゞ同様、自ら命を絶ちました。
遺された作品は、その若さゆえエチュード(習作)というべきレベルとも思えます。
この本の中に、
澄子が徳冨蘆花の『思出の記』を読んで「宇和島」という地に憧れを抱いた、いう件(くだり)があります。
『思出の記』は中学生のとき、私が初めて文学に触れた作品で、一気に読み通した記憶が残っています。
改めて70年ぶりに読み返してみて、こんな難しい文章を読み通した自分の早熟振り(?)に自分で感心してしまいした。
~ミエミエの自画自賛ですね~
ただ、蘆花が書いた宇和島の場面は、澄子のような多感な少女が憧憬を抱くような土地ではありません。
澄子が何を感じたのでしょうか・・・・・・謎です。

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