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2014年8月

『丘の家のジェーン』~もう一つの赤毛のアン

2014年8月29日

山荘の庭でいつの間にか勢力を拡大しているミョウガの芽を摘んでいたら、一頭の蝶が落葉の上で飛び立てないでいた。
雨で濡れたせいだろうか・・・。

Dscn3251

綺麗に見えたので写真に収め図鑑で調べたら「アゲハチョウ」でごくありふれた蝶なのだそうだ・・・なーんだ・・・
これまで、山でギフチョウ、オオムラサキ、クジャクチョウなどを観察して覚えていたが、これで分かるチョウが一つは増えたことになる。

そういえば少し前のことだが、巣立ちの前に巣から落ちてしまったらしい幼鳥が庭でウロウロしていたことがあった。
近づくと精一杯の威嚇のつもりか大きなくちばしをひらく。

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頭の上では多分親鳥だろう、しきりに鳴き声をあげながら旋回していた。
こちらには全く危害を与えるつもりはないのに、親としては心配で胸も張り裂けそうな思いでいるのだろう。
暫くして幼鳥は茂みに姿を隠したが、無事に育ったろうか。

さて、このごろ何かに没頭しているとき無意識に鼻歌をハミングするとそれが朝ドラ「花子とアン」のタイトル曲なっていることが多い。
見るともなく見ているだけなのに、いつの間にか曲がインプットされていて、これも一種の洗脳現象であろう。

連日の雨で逼塞(ひっそく)している一日、溜まっているオペラを見るか、朝ドラつながりでLD(レーザーディスク)の「赤毛のアン」シリーズを見るか、迷った。
オペラを観るには心の準備が必要だが、その備えができていないのでイージーな後者に落ち着いた。
観たのは1985年にカナダでケヴィン・サリヴァン監督により制作されたもの。
アン・シャーリーをミーガン・フォローズが演じている。
何よりアンを引き取って育てるマーシュとその妻マリラがいい味を出している。
これ以前にも何度か映画化されていて、特に2作目では髭のないマーシュで、原作者のモンゴメリーをひどく落胆させたそうだが、本作では見事な髭で雰囲気を出している。

観ればそれなりに、干からびている爺さんの心の襞(ひだ)からも沁み出すものがあった。

アンの舞台「プリンスエドワード島」は行きたいところの上位にあったが、長時間のフライトに耐える心身が失せてしまった今、もう遠い彼方になってしまった。

Img005 グリーン・ゲーブルズのアンの家

Img002 モンゴメリーには「赤毛のアン」シリーズのほかに幾つかの作品がある。
これもその一冊で、思い出せないくらい昔に買っておいたものだが、これを機に読んでおこう、と思う。
走り読みをした感じでは通奏するものはアンと同じであろうということである。

Img006 アンの産みの親ルーシー・M・モンゴメリー(1874~1942)

Img009 これが、プリンス・エドワード島のモンゴメリーの生家だそうである。

さてさて、長雨のせいで年甲斐もなくとんだ少女趣味を白状することとなってしまった。

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花嫁の越えた峠 ~黒平峠の幻影

2014年8月23日

この週末は山の会で木曽駒と宝剣岳に行く計画になっていた。
しかし、この夏、山々を覆い尽くしていた不順な天気は依然安定せず、中止に追い込まれてしまった。
久しぶりにまともな山ネタをアップできると気負っていたのに肩透かし・・・

その日、1959年12月2日、一人の哲学者・エッセイストがその峠に立った。
峠は広い草原であった。
その人は小一時間ほどその草原に寝そべってぼんやりと物思いにふけりながら、昨夜泊まった西の麓の宿のおかみさんから聞いた話を思い返していた。
かつて、この峠はその向こう側から嫁いできた花嫁も越えたのだ、という・・・。
その人はその話を後に
「花嫁の越えた峠」という文章にした。
その人とは、串田孫一さんのことである

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89歳の生涯で、驚くほどの文章を量産した串田作品の中でも私の好きな一篇である。
ところで、その峠の名前は長らく明らかにされていなかった.
ほぼ10年後
『ひとり旅』の中でそれが「黒平峠」であると謎解きをされた。

Img312 『ひとり旅』の中の「黒平峠」のページ。

黒平峠は山梨県のほぼ中央部、西の黒平と東の塩平を結ぶ生活道であった。
串田さんがここを越えた55年前のその当時で、すでに通う人もなく道型は薄れ、消滅を迎える運命は誰の目にも明らかであったようである。

登山家・今井雄二さんの『続心に山ありて』によると、串田さんが越えたより大分前(戦前のことらしいが・・・)現在の乙女高原の南に牧場があり、その一角に黒平峠と思われる牧歌的な場所があったと回想している。
~小林経雄氏の『甲斐の山山』によると「帯那牧場」というのがあったそうである~
今井さんは20年を経たころ再訪したが、その場所を正確には特定できないほど変貌していた。

今井さんよりさらに遡った時代の登山家・細井吉造さんの『伊那谷 木曽谷』(名著の評価が高い)によると、昭和10年ころの様子が分かる。
引用すると「黒平峠といえば、このあたりから長城山、倉沢山、焼山峠付近にわたってなだらかな高原的な風景を豊かに盛りあげ、晩春から初秋にかけては美しい御牧平の牧場が展開する」とあり、いずれにしても牧歌的な場所であったことがうかがえる。
串田さんの峠越えのときには辛うじてその残影があったのであろう。

その後に開削された「水ヶ森林道」により乙女高原から帯那山にいたる優しい稜線は登山の対象から忘れさられ、黒平峠が原野に戻る道は、急坂を転げ落ちる道であったことは想像に難くない。

私は「花嫁の越えた峠」が黒平峠と知って以来、この峠の存在が気になっていて、いつかは探索してみようと心掛けてはいた。
しかし、あまりにも資料が乏しくて手掛かりが得られないでいた。

この峠の故事来歴を知りたくて原 全教の労作『奥秩父』その他の文献に当たってみたが、得られたものは僅かであった。
それだけに、私同様に黒平峠への特別な関心をもっていて、串田さんに私淑している永沢和俊さんの『山から降ってくる雪』にある黒平峠探索の記録は興味深く読んだ。

またネット上にも乏しいながらも、私以上の篤志家が峠道を探索している記事があり、貴重なものとして拝読した。

そうしてようやく積年の宿題を果たすため訪れたのが19日のこと。
何とかその残影に到達することができた。

Dscn3232 一見峠らしい地形はしていない樹林の中にリボンがつけられていた。

Dscn3231 近寄ると小さく「黒平峠」と記された板が付けられていた。
周囲一帯は樹林に覆われていて、串田さんが「広い草原である」と書いている風情は全くない。
この標識をつけた方は、どのような判断でここが「黒平峠」としたのであろうか。
ただ、一帯の西下がりの緩傾斜の地形を観察すると、樹木が無ければ確かに明るい草原を形成しているとも思われる。
戦後、山河が荒れた時代に山は奇妙に明るく開放的だった。
盛んに植栽された樹木が成長し、山の姿を一変させたあちこちの例を思えば、ここが黒平峠であっても何の不思議もない。

生活道の役割を終え道は昔の姿に戻るしかないのである。
そうなればかつて様々な思いが行き交ったであろう峠の哀歓すらも残されない。

これで峠の位置は確認できた。
黒平と塩平を結ぶ古い道の跡を探るのは冬枯れの時期になってからのこととなる。

今日はこれにて、水ヶ森林道に沿う二つの山「水ヶ森」と「帯那山」の頂を踏んで帰ろう。

Dscn3246 帯那山からの富士がこの日唯一の展望であった。

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このままではあまりにも殺風景な画面なので、今日いたるところで見かけた「フシグロセンノウ」の画像を入れておきましょう。
~白状しますが、この写真は私が撮ったものではありません。
ハンドルネーム「あんぱん」さんのブログにとても綺麗に撮れたこの花がアップされていたので、お願いして使わさせていただいたものです。
私が撮ったものは光の関係か、発色がおかしくて、とてもこの花の美しさを伝えられそうもなかったものですから・・・
「あんぱん」さん、ありがとうございます。

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織都・桐生市は今・・・

2014年8月17日

数日前、姪の結婚披露で桐生市の中心にある会場へ行った。
これまで稀に、市内を通過することはあるが、本当に久しぶりに中心街・本町通りを少しだけ歩いてみた。

親戚もあったが、高校の三年間通学した桐生市は当時(60年前)まぎれもなく地域の中核都市で、戦後の復興期でもあったが、活力に充ちていた。

主産業の絹織物で、西の京都・西陣と双璧をなす織都として絶頂期を迎えようとしていたと思う。

同時に野球の盛んな球都としても、母校の甲子園常連の高校を中心として青少年が瞳を輝かして白球を追っていた。

しかし、安い絹織物が中国から奔流のように流れ込んでくる事態となり、桐生市は急速に活力を失い、衰退の道を歩むこととなる。

今日も、盆の休みという理由もあるだろうが、これがあの殷賑(いんしん)を極めていた本町通り?と疑いたくなるほど、閑散としている。

Photo
まるで白昼夢を見ているような寂しさである。
暑いから、人々は冷房の利いた建物の中に潜んでいる、という理由もあろうが、とにかく通りに人が歩いていない。

2
汚れたシャッターが閉ざされたままの店も多い。
人っ子一人もいない。
これが人口16万人の街か?過疎村と同じ光景ではないか・・・。

Photo_2 古くから発展した街なので、由緒のある建造物も多いのだが、これも兵(つわもの)どもの夢の跡か?

Photo_3 ここが多分、中心の交叉点だろう。

Photo_4

今日本では一極集中化に拍車がかかって歯止めが利かず、一国の消長にかかわる問題ともなっている。
広域分割的に見れば札幌とか仙台などはその地域の中核都市への集中化。
日本全体を俯瞰すれば東京へと・・・。
このまま放置すれば、一種のサバイバルゲームが繰り広げられ、最後には「一将(東京)功なって万骨枯る」事態にもなりかねない。

桐生市も今まさにその「万骨化」現象にさらされている。

国も県も地域も、そして小さくはコミュニティでもそれぞれの立場で懸命に地域活性化に向き合って知恵を絞っている。

しかし、人口の絶対的な減少傾向と、それに連動する形での経済のダウンサイジング化現象の前に、どの地域も有効な手立てがないままに立ちすくんでいる。

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湊かなえ『山女日記』を読む

2014年8月12日

「なぜあなたはエベレストへ登るのですか?」
「そこにそれ(エベレスト)があるからだ」
ジョージ・マロリーが女性記者の質問にそう答えて以来、この古くて新しい問と、百人百様の答はいまだにいたるところで繰り返されている。
私自身もどうかすると自問自答することがあるが、もちろん説得性のある答などいつになっても見つけられっこない。

湊かなえさんの新作『山女日記』にはもしかしたらその答えの一つがあるのかもしれない。

書店で何気なく本を眺めているとき、書名に「山」という字が入っていると手が伸びる。
いわゆる「パブロフの犬」現象である。
この『山女日記』もそうだった。

湊さんの作品については、最初に『告白』を読んでから、作風が暗くて重かったのでフィーリングが合わず、愛読者になる、ということにはならなかった。

その湊さんが「山女」を描く?

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短編集というより、これは7編の連作なんだろうな・・・
登場した女性が次の章では役どころを変えて登場したりする。
あるいはある章でさりげなく挿話的に登場する女性が、別の章で主人公になって現れる。
作家としてはこれくらいの手法はお茶の子サイサイなんだろうが、私としては”お主(湊さん)、なかなかやるのう”などと感心してしまう。

このようにそれぞれの物語が手作りの手芸品のように絶妙に織り込まれ、作家の手練(てだ)れ、とはこういうことをいうのかと思う。

登場する山女は、いわゆる「アラサー」と呼ばれる前後の世代の女性であるが、それぞれが大なり小なりそれぞれに生きるうえでの悩み事を抱えている。

私はこの世代の女性とお付き合いできる機会にとんと恵まれていないため、その生態?の知識がない。
従って山に登る目的、動機などについて湊さんが書いていることが的をえているのかどうか、判断できない。

ただ、世代に関係なく、人は誰でも生きている限り、例外なく心の内に屈託やら、屈折やら迷いやらを抱えている。

その抱えているものをそのままに山に向かい、その屈託がフト頭をもたげることはあるものの、ただ足を前に出すことの繰り返しという、単純で、動物的な行為に没頭する。
そして山頂に立ったとき、フイに屈託するものは稜線の風に流されて消えていき、胸の中が小さな幸福感が灯る。
それは、山から世俗の世界に再び戻った時には、新しい道が待っていることを予感させる。

私めはといえば、いとも造作なく湊マジックで目頭を熱くしている・・・。
例えば「火打山」のこんなラストシーン~

「くだらない、くだらない、くだらない、残骸なんか脱ぎすてろ!
チューブのふたを閉めて立ち上がる。
神崎さんが、えっ?とわたしを見上げる。
『わたしも叫んできます。覚悟しておいてください』
2462mの頂から、叫ぶ言葉はもう決めてある。」

こんな風に決められると、長年人間をしてきている爺さんがウルウルになってします。
頭から読んでいただかなければ分かるものでもないが・・・

小説でも映画でも、小さな幸せの物語に私はとても弱い。
いっとき、自分が主人公に同化し、心の中にポッと幸せの灯がともるからである。

でもねー、近ごろの小説も映画も小さなものばかりになっている。
はたしてこれでいいのだろうか。

時には魂の底から揺さぶられるような大きな物語にも出会いたい。
「風と共に去りぬ」のような・・・。

暑すぎたり、台風の襲来などで天気が不順なため、山歩きもそこらのショーもない山ばかりで、ブログにアップにするほどのものがない。
例年のことだが、チョッとした夏眠状態です。

 

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霧ヶ峰・山彦谷を囲む草原を歩く

2014年8月5日

どうしてそんな簡単なことに今まで気がつかなかったのだろうか。
滑ったことはないが、霧ヶ峰・車山の北東斜面に「エコーバレー」というスキー場があることはもちろん知っていた。
しかし、そのネーミングの由来は知らないままでいたが、フイに思い至った。
そうだったのだ、ここが
「山彦谷」と呼ばれていたことに由来していたのだ。

「山彦谷」のことは霧ヶ峰を巡る多くの上質なエッセイを遺した手塚宗求(むねやす)さんが書かれたものに何度か登場している。
とりわけ『邂逅の山』にはずばり「山彦谷」があり
「しだいに俗化してゆく高原の中で、私が最後まで守りたい、最後まで夢を持ちたいと思う場所だ」と綴っている。
これは1965年に書かれたものであるが、手塚さんが「ある日突然チェンソウがこの谷にこだますることがあるかもしれない・・・」と予感した通り、ほどなくスキー場と、別荘地に変貌してしまった。

3日、私はスキー場最奥の駐車場からスタートし大笹峰へ登り、手塚さんが命名した「山彦北の耳」から「南の耳」、そして「殿城山」を経由して反時計周りに歩き車に戻った。
絶えず清涼な風がわたる草の原を歩きながら、2年前に生涯を閉じた手塚さんのことをしきりに思っていた。

Static 今日のトラック

Dscn3204 蓼科山 ~この時だけで、あとは終日雲の中。

Dscn3206 林道歩きが終わり、山道になる。

Dscn3209 左・山彦谷南の耳   右・北の耳

Dscn3216 彼方の円頂は車山。 左端が殿城山

Dscn3217 山彦谷北の耳(左)と大笹峰。

Dscn3214 カワラナデシコ ~山に咲くのになぜ「河原」なのか

Dscn3215 イブキジャコウソウ

Dscn3218 山彦谷北の耳 ~1959年1月に発生した遭難事故の教訓から、場所の特定のために手塚さんが命名し、広く認知されるようになった。
この標柱は2007年、手塚さんらによって設置された。

Dscn3221 山彦谷南の峰

Dscn3222 コロボックル・ヒュッテの遠望 ~若き日の手塚さんが1956年に建てた小さな山小屋は、その小ささゆえに惹かれた人たちに愛され続けた。
小屋の右側(北西)ひ一叢の木立が見える。
手塚さんが50年前くらいから、防風のために植えたものが、星霜を重ねて、霧ケ峰には珍しい森に変貌した。

Dscn3225 北海道・美瑛の丘を思わせる・・・

Dscn3226 来し方を振り返る ~心地よい高原の風が絶えず吹き渡っていた。

Dscn3227 画面のほぼ中央の、家族連れが休んでいるのが「樺ノ丘」と思われる。
姫木平に下る分岐点から先へ行くと、車山への上りの前にこれも手塚さんが命名した「樺ノ丘」と呼ばれる地点がある。
以前歩いたときはまったく気づくことなく通過していた。
手塚さんが命名した頃には3本の白樺の老樹が立っていた。
1980年2本が倒れ、その10年後には残る1本も命脈が尽きた。
哀惜の手塚さんはしかし、その足元に10数本の白樺の若木が冬芽をつけているのを見た。(『高原の随想』から)

Dscn3228 山彦谷を俯瞰する ~ゲレンデと無残な伐採。

Dscn3229 最後の小さな頂「殿城山」に立ち寄れば、あとは車に戻るばかりである。

草原をわたる涼やかな風を体に受けながら歩いたその間、知らず知らずの間に私は2年前に世を去った手塚さんのことを思い続けていた。

 

 

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「氷壁を越えて」展会場へ

2014年8月1日

7月26日、徳本峠から上高地へ下りてきて、このたびの大きな目的である「氷壁を越えて」展の会場「上高地インフォーメーションセンター」に向かいました。

6月5日付けで、このさややかなブログで『氷壁・ナイロンザイル事件の真実』についての拙い所感をアップしました。
私としては全く予期せぬ反応が著者の石岡繁雄さんのご関係の方からあり、実は「冷汗三斗」の思いをしました。
石岡さんの意志の力が行間から伝わってくるものに打たれて読んだものとはいえ、表層をなぞっただけの薄っぺらなものだけに、馬脚が現れたものと覚悟したのですが、分に過ぎる好意的な感想をいただきました

この事件に関して私の立っている位置など、観客席から見ている傍観者のものでしかないのですが、その立場としては精一杯のこととして、この催しの会場へは是非足を運ばなければならない、と思っていたのです。

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Dscn3183 展示会場
ここに展示されているものは1955年1月2日、前穂高東壁の上部で発生した墜死事故が、いわゆる「ナイロンザイル事件」の発端になってからの、壮絶な歴史が凝縮されているのでしょう。
ほんの行きずりに関心を寄せただけの私などが、何事かを語るなど不遜の極みであります。

Dscn3179 ここには”なぜ山に登るのか?”と問われた石岡さんが「登山はタート(行)である」と答えたことが書かれています。
求道者としての精神を持っている石岡さんらしい答えですね。

Dscn3175 ザイルの切断で墜死した若山五朗さん ~まだ22歳の若さでした。

Img309 『氷壁画集』生沢 朗 より

Dscn3182 「石岡さんはアルピニストであると共に、志を持った数少ない登山家の一人である」と書かれている。
これは井上靖氏が、石岡さんの著書『屏風岩登攀記』の刊行に寄せた献辞であります。

Dscn3180 繁雄さんの次女・石岡あづみさん ~最近の「NITE」における切断実験で用いたザイルを手にされて・・・
この実験でも改めてナイロンザイルの欠陥が実証されたそうです。が、ここまで長いことその脆弱性と危険を世に啓蒙してきたにもかかわらず、依然としてその認識に欠けているクライマーが跡を絶たないらしいのです。
その意味では「ナイロンザイル事件」はまだ終わっていない、といえるのでしょう。

あづみさんの取次ぎで「石岡繁雄の志を伝える会」会長の相田武男さんと電話でお話することもできました。
思いがけない成り行きでヘドモドしてしまい、なにやら分けの分からない会話になってしまったことだろうと思います。

改めて触れる必要もないのですが、井上靖の『氷壁』は「ナイロンザイル事件」が主題です。
主人公の魚津恭太はこの事件が発生した時の3人パーティーの
リーダー・石原 国利さんがモデルとされています。
~同時に、カタカナ交じりの遺書や、上高地で婚約者と落ち合う設定などは、稀代のアルピニスト
松涛 明がモデルになっていると思われるところもあります。
井上 靖には、これも高名な岳人・加藤 泰安氏をモデルにした『あしたくる人』という作品もあります。

井上さんがいまだに健筆を振るわれる立場におられたら、きっと鉄の意志を貫いた石岡 繁雄さんを題材にした作品を著わされたに違いない、と確信し、それだけにその望みは永遠に叶えられないことが返す返すも心残りです。

バスの時間に追われ、慌しく会場を後にしてしまいましたが、この展示会は何かのついでに立ち寄る、ということではなく、これ自体を目的に訪れるべきであったと、車中で反省しました。

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