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2014年7月

歴史を刻む徳本(とくごう)峠へ

2014年7月29日

明神の登山口から2時間強、終いには歩いているのか止まっているのか判然としないほどスピードダウンして徳本峠2135mに着いた。
日本のスポーツ登山黎明期の先達、小島烏水、槙有恒ら多くの岳人が、長い島々谷を登りつめてこの峠に立ち、目の前に立ちふさがる穂高の日本離れした風貌に接して言葉を失い、その感動を文字にして伝えた歴史上の峠に、あまりにも遅すぎたが私も立っことができた。

徳本峠~これを「とくごうとうげ」と読める人は決して多くはないであろう。
なぜこのようなことになったのか、今となっては正しく説明できる何者もない。
当然、考察が加えられ、その結果は諸説が入り混じるというお定まりのパターン。
その中で江戸時代の上高地に「徳吾」という地名があったのに、明治28年ころの側量時に何故か「徳本峠」と記載し、しかし不審に思って誰も文字通りに読まないのでしかたなく「とくごうとうげ」とルビを振った、というものがある。(『信州百峠』)

一夜明けた26日、さすがに空気がヒンヤリしている早朝の上高地から明神へ。
明神の登山口で支度を整えていると昨夜「山研」で同宿した4人パーティーがやってきた。
私より先に出たはずなのだが、どこで追い越したのだろうか?
涸沢に入り、東稜から北穂に登る予定だそうである。

峠への道に入るとあの喧騒の行列がウソのように人影はバッタリと途絶える。
ここから徳本峠までの標高差は600m強とはいえ、今の私には決して楽にクリアできるものではない。
ただ、この峠道はさすがに歴史を刻んでいるだけあって、白沢(正確には黒沢)に沿うていく道は労力を最小限に抑えるよう実に合理的にできている。

Dscn3162 時おり木立が切れて、背後に前穂と西穂が次第に競りあがってくるのを眺めることができる。

Dscn3164
花は少なく「センジュガンピ(千手岩菲)」が目立つくらい。
~名前を知っていたわけではなく、帰宅後の調べで同定~

Dscn3166

十分に疲れ、それでも標準タイムで峠に立った。
反対の島々谷から長いなが~い道程を経てようやく峠に立つと、不意に眼前にそそり立つ穂高を見て感動に震える・・・そんな感動は楽をする分少ないが・・・。

明治維新で徳本峠道は一度閉ざされたが、11年を経て「日本アルプス」の名付け親ウイリァム・ガーランドや、日本アルプスのパイオニアであるウオルター・ウエストンがこの峠道に足跡を印し、再び人が通う道になった。
ウエストンは『日本アルプス・登山と探検』の中で「・・・峠の頂上からの眺望は日本でも最も雄大なものの一つである」と賛嘆した。

    山の重さが私を攻め囲んだ
    私は大地のそそり立つ力をこころに握りしめて
    山に向かった
    山はみじろぎもしない・・・・・

これは高村光太郎が、この峠で島々谷を登ってくる智恵子を出迎えたときに詠んだ詩の一節。

登山家は登山家の、詩人は詩人の言葉でこの峠の展望がいかに圧倒的であるかを表現している。
    

Dscn3168 さすがにここまで高度が上がると峠を越える風は清涼そのものだ。
喉の渇きが甚だしく、冷たいビールが欲しかったが、下山があるので冷えた飲もので我慢。
当然驚くほどの値段だが、今の欲求を思えば安いもの・・・

Dscn3169 徳本峠小屋 ~建て替えられたとはいえ依然として、今どきの北アの山小屋としては素朴に過ぎる。

Dscn3174

Dscn3171 奥穂のアップ ~ジャンダルムやロバの耳もハッキリ指摘できる。

峠を下る時間になった。
再びここに立つには老い過ぎた。
♪穂高よさらば またくる日まで 奥穂にはゆるあかね雲
  かえり見すれば遠ざかる まぶたに残るジャンダルム・・・♪
詩人ではない私はこんな替え歌(芳野満彦作詞)で惜別の情を表現することしかできない。

暑い上高地に下って、インフォーメーションセンターで開催中の「氷壁を越えて」展の会場へ向かった。

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上高地から徳澤へ ~今浦島の感傷散歩

2014年7月28日

梓川の流れの色はそのままでも、その流れを見ながら遡っていく私には50年余の断絶があった。
穂高や上高地周辺には数年に一度くらいの割りあいで入っているが、上高地から徳澤方面へは久しく入っていないことは承知していた。
記録をくくってみたら50年余も足を踏み入れていなかったのには正直ビックリしてしまった。
1962年7月、北鎌尾根から槍へ登り、上高地へ下ったのが梓川沿いを歩いた最後となっていたのである。

Dscn3129 定番~河童橋越しに見る奥穂と明神岳。
”雪が少ないなー”というのが最初の印象。
しかし、正面の「岳沢」は南に面しているので、雪解けが早く例年こんなものかもしれない。

Dscn3131 奥穂の南西面をアップしてみると、正面の顕著なツルツルのスラブ ~タタミ岩がよくわかる。
今は定かに思い返すことは出来ないが、多分、細いスラブとハイマツのミックスする辺りで岩に取り付き、途中足が震えるほどの高度感に怖じ気をふるい、ハイマツ帯に逃げ、ジャンダルム近くの稜線に乗りあげた。
体力も気力も身体能力もピークのころの思いでである。

上高地からの、群れをなす人が生み出す雰囲気も様変わりであり、一人でその人の流れに乗っている私は今様の浦島太郎の心境である。

時折、樹木の切れ間から覗く西穂から明神岳、そして次第に姿を現してくる前穂の仰ぎ見る姿も初めて見るのに等しい。

なによりこの人の多さ・・・
多くは涸沢へ、穂高へ、槍へと向かう老若男女の群れ。
そのいでたちは明るくカラフルで、このエリア独自の雰囲気を演出している。
あのころは、皆一様に暗色のウエアーで身を包み、大型のキスリングを背負って黙々と歩いていたものだが・・・。

Dscn3135 西穂の稜線 ~分かり難いが小さなY字状の雪渓の上が西穂山頂。
稜線の左端の小さなトンガリが西穂独標。

Dscn3139 振り仰ぐ明神岳。 前穂も奥の方に小さく覗いている

Dscn3144 徳澤園 ~今はチャッカリと井上靖の『氷壁』に由来する「氷壁の宿」を名乗っている。
記憶の底ではもう少し牧歌的な場所だったが・・・

Dscn3148 新村橋 ~前穂Ⅳ峰正面壁に登攀ルート「北条・新村ルート」を開いた新村正一に因んだ橋名である。
ここから30分ほどで「ナイロンザイル事件」の当事者であった若山五朗さんの慰霊碑に達するらしいので、碑前に額づくつもりでいたが、時間切れになったため、橋から引き返した。

帰りは明神から梓川の右岸に沿う遊歩道で上高地へ戻った。
左岸のメイン道路に比べて格段に人が少ない。

河童橋まで200mという、深い木立の奥に目立たないように建つ、日本山岳会の「山研」が今夜の宿舎である。

Dscn3158

この施設を利用するのは日本山岳会に入会して以来初めてである。
平日の利用料が会員であれば2千円と格安。
食事は自炊が原則であるが、ご飯とみそ汁は一食400円で提供される。
完全セルフであるが、風呂に入れて、清潔な布団で眠れるのだから格安であることは間違いない。

同宿舎の話によるとこの辺りは昨日まで雨だったそうである。
であれば、暑くても晴天のほうがましか・・・

夜になってもあまり気温が下がらない。
傍らのせせらぎの音を聞きながら一夜を送った。

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再びのタマアジサイ ~三頭山

2014年7月23日

二枚腰を見せた梅雨明けと、浮世の義理がからみ山歩きにまたまたブランクが生じてしまい、更新が間遠くなってしまった。
ようやく「梅雨明けしたとみられる」と発表された昨日、特別な準備をしなくても歩ける
「三頭山」1531mで穴埋めをしてきた。

奥多摩三兄弟の大岳山、御前山の中では一番高いのに、一番簡単に登れる三頭山には、平日でもハイカーが多い。
そんな山なので特別に記事にするようなことがないのである。

幸いというか、不幸なことにというか迷うところであるが、過日のこのブログで花の同定を間違えて「赤ズキン」さま、いや「赤ワイン」さまからご指摘いただいた2種の花が、路傍に開いていたので、改めて訂正かたがたご披露しておくこととした。

Dscn3114 私がタマアジサイと紹介し、Oさんから葉の形が変わっている、とのご指摘があり、赤ワインさんから「ギンバイソウ」との間違いの訂正をいただいたもの。

Dscn3122 こちらが開花したギンバイソウ ~花(包)の形もタマアジサイとは明らかに違うな~。

Dscn3119 こちらがほんもののタマアジサイ・・・と思うが・・・
また間違っていたらどうしよう・・・。
赤ワインさま、お墨付きをいただければありがたいのですが・・・

Dscn3118 これまた奇妙な葉 ~ギンバイソウのような葉の切れ目から葉が伸びてきている。
げに、動植物の世界には摩訶不思議というしかないような珍妙な生態現象がある。
いずれ何らかの意味はあるのだろうが、このような人心を惑わすようなことは控えて欲しいな、と思う。

Dscn3118_2 三頭山頂 ~平日なのに千客万来のおもむき。
私のようなひとり者は居心地がよろしくない・・・

Dscn3123 中腹の三頭大滝
まだ大気の状態は不安定なようでパラパラしてきた。

話は全然別のことになる。
山岳誌『岳人』の出版元が変わることになった。
11947年、京大のクライマー伊藤洋平の編集で発行され、先行していた『山と渓谷』と異なり、先鋭的な登攀記録重視の路線をとった。
24号から中日新聞社が版元に変わり、以来今日まで、その路線を貫いてきている。

Img114
この号を最後として、次号から「モンベルグループ」が発行人となるのだそうである。
ここでもモンベルか。
ちかごろやたらに元気がいい。
私はこの4月以降、山岳誌の購読を止めた。
重くて嵩張るので保管が重荷になってきた。
2年以上になるバックナンバーは、必要に思えるページだけ切り取り、廃棄してきてほぼその作業は終わった。
~それでも蔵書全体からみれば焼け石に水程度の減量効果しか出ていないが・・・。
そんな宗旨に背いてこの号だけは手元においておこう。
時代を刻んだ一つのクロニクルだから・・・。

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日原川・倉沢谷遡行 ~途中撤退

2014年7月17日

そこで弁慶立ち往生・・・
弁慶ならぬ身ではあるが、その時私はそんな状態になってしまった。
そこは両岸が狭まって、流れは早く深い。
私は右岸(左側)のツルツルの岩をへつってパスしようとした。
小さな手掛かりはあるので右足の一歩目の置場さえあれば何とかなりそうだった。
しかしその足場が無いのだ。
水中を足で探ってみたがツルツルで、ムリして乗り込もうとすると流れに足を掬われ、間違いなく流されることになるだろう。
そうなれば全身ずぶ濡れになるのは必定。
諦めて対岸(左岸)に渡る可能性を探ってみたが、それには腰くらいまで浸ることは避けられそうにないし、流される可能性もないとはいえまい。
・・・・これまでだ・・・遡行はここで終わりか・・・
こうして2年ぶりのウオーターウオーキングは、入渓してから1時間たらずでアッサリ終わりを迎えた。

今日(15日)は奥多摩・日原川支流の「倉沢谷」を魚留の滝まで遡行するのが目的である。
ガイド記事を見る限り私でも遡行できそうだ。
青空は期待できそうにないが、展望が目的ではないからかまわない。
そして渓流の中なら、山道よりは涼しいだろう。

朝、出がけに家人が”水が多いでしょうから気をつけて”と言ったがさして気にも留めずに聞き流した。
だが、それが見事的中したようである。

倉沢BSで一人下車し、倉沢林道からガイド記事に従い、転げ落ちそうな斜面を倉沢谷へ下った。
渓流足袋と渓流スパッツを着け、ヘルメットを被って一応の支度をして入渓した時はもう11時になっていた。

Img110日の遡行図 ~この遡行図と現場の状況が必ずしもピタリと一致しない。

Dscn3110

さっそく、思い切りよくザブザブ水に入る。
冷たさは感じない程度に水温は上がっている。
最初の小さな棚を左からのへつりでスタートした。

Dscn3111 続く滝を巻きながら谷を見下ろす。

Dscn3112 しばらくして現れる2段5mの滝。
写ってはいないがこの上は左に急角度で曲がり、その部分はゴルジュになっていて白く泡立つ急流が滑り落ちている。
明らかに顕著な難場と思えるのだが、なぜか遡行図には特別な説明はない。
~あまりな予想外の展開で私は入渓点を間違えているのではないか、との疑念にとりつかれてしまった。

何人(なんびと)といえどもここは歯が立つまい。
右へ巻いて逃げるが、高巻過ぎて沢に降りられなくなってしまった。
沢に下りるためには裸土の急斜面を下降するしかないが、滑ったらとてもまずいことになるだろう。
ロープを使おうにも支点になる立木がない。
土の斜面の数メートル先に2本の朽ち木が谷底に向かって倒れているのが見える。
そこまで行ければ倒木に捕まって降りられるだろう。
沢足袋をを土に蹴り込み、斜面にしがみつくようにして何とか無事、倒木を掴まえた。
ヤレヤレ、これで流れに下れるぞ・・・。

沢に下り立ち、遡行を再開してほどなくして文頭に書いたシチュエーションにあいなった。

遡行を断念し、左のやたら急な手掛かりのない斜面を、手指の先を土に差し込むようにして這いずり登り、倉沢林道に逃げた。
~帰宅してから幾つかのネット記事を読んだら、この沢は釜の中を泳ぎながら遡行するのがスタイルのようである。
私のように、濡れるのを厭うようではこの沢からは歓迎されないのであろう。

倉沢谷の様子をうかがいながら林道を先に進んでみた。
木に邪魔されて定かには観察できないが水量が多く、この先もやはり難儀しそうな様子である。
キッパリと今日の遡行を断念した。
あまりにもあっけない幕引きだが、身の程を知ればこんなものだろう。

捲土重来を期す・・・なんてことになるかどうか、自分でも分からない。

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編笠山を思いながらの奥多摩歩き

2014年7月15日

NHK朝の連ドラは、これが命の家人が見ているので、私は横目でチラチラと「ナガラ見」している程度。
今放映中のヒロイン・村岡花(子)の孫娘の村岡恵理さんがラジオで興味深いことを聞かせてくれた。
花子は当初、書名を『窓辺に寄る少女』としたそうだが、出版する三笠書房の編集者が『赤毛のアン』とすることを強く提案し、社長自らも説得したが花子はガンとして聞き入れなかった。
花子がそのやり取りを娘(義理の)に聞かせたところ、娘は「断然『赤毛のアン』が良い」と言い、とうとう花子もその気にさせられた、という秘話である。
乙女チックだが何のイメージも湧かない平凡な『窓辺に寄る少女』より、夢見がちでおしゃべりで生き生きとしたアンを直接的に思い起こさせる『赤毛のアン』が断然精彩を放つ。
編集者の慧眼、センスの良さが光るエピソードである。
このような経過で出版されたのが1952年。
そうすると恥ずかしいことだが、私が『赤毛のアン』を読んだのは高校生のころで、もちろん三笠書房版であったことはよく覚えている。

さて本題。
今日(13日)は八ヶ岳の「編笠山」へ行くつもりでいた。
山の会のメンバー10人が一泊二日の日程で編笠から権現岳を歩くことになっている。
その初日だけ付き合うというつもりだった。
それも内緒にしていおいて、少し先行して編笠の山頂で待ち伏せしていて、皆を驚かそうという魂胆だった。

しかし、われながらこんな素敵な思い付きも天候の悪さで実現しなかった。
仕方なしの代わりが蒸し暑い奥多摩の低山歩きとなった。
養沢神社から大岳鍾乳洞を経て、馬頭刈尾根に登り、南側の白倉に下るというコースである。

Static 今日の行程 ~GPSのデータでは最大標高差785m、獲得高度884mと記録されている。

このコースは昔、奥多摩の主脈、大岳~御前山~三頭山を結んで夜中に歩いた時のスタートコースに当たっている。
しかしながら初めて歩くのと全く同じで、記憶に残るものは一つもなかった。
あのナイトハイクは当初10人くらいで始めたが、途中で次々と降りていき、三頭山まで到達できたのは私と、私よりズッと若いA君との二人になった。

Dscn3105 養沢川の渓流に沿って歩き始める。
編笠への皆も観音平をスタートしたころである。
こちらは曇天だが、八ヶ岳辺りはどうなのだろうか・・・

Dscn3106 小滝の細い流水

Dscn3108 さすが大滝、水量がグッと多くなる。

Dscn3107 山道を装うのは開花寸前のタマアジサイ
こちらが顔をゆがめながら急な山道を登っているのを傍目に、知らん顔である。

Dscn3109 馬頭刈尾根上の白倉への下降分岐点に到着。
ここまで標高差およそ800m。
侮れない数値で、十分にしごかれた。
立ったまま昼食を摂っている間に遂に小雨が落ちてきて、肌寒さもあってジャケットを羽織る。
八ヶ岳で、皆が雨に見舞われなければいいのだが・・・

下山の途中、突然ブーンという羽根音とともに目の前に蜂が現れた。
スズメバチで、これまで見たことのない大きな奴である。
カチカチという音は立てていないから、警戒しているだけで、襲うつもりはないようだ。
とにかくジッとしていることだ、と言い聞かせて静止していたが、奴めはホバリングしながら顔の前数センチにまで近づいてきた。
我慢ならず、思わず手にしていたハンカチタオルを素早く振った。
当たったらしく奴は飛び去っていった。
蜂は黒いものに反応する、と言われている。
もし、私の頭髪が黒々していたら・・・
髪が薄く白くなるのもまんざら悪いことばかりでもないな、と思う。

人の気配のない白倉のバス停でバスを待ちながら、編笠山一行はそろそろ山頂に着くころだろうか、と遠く離(さか)る、目には見えない八ヶ岳にもう一度思いを馳せてみた。

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西岳 ~八ヶ岳、ひとり離れて

2014年7月9日

たくさんの頂を南北に連ねる八ヶ岳
その主稜線からはみ出している山のトップは阿弥陀岳で、それに次ぐのが今日(6日)に登る、西南端にあり、同じような山容の編笠山と仲良く並んでいる
「西岳」2308mである。
足かけ60年近くになる山歩きの自分史の中で、随分通った八ヶ岳であるが、唯一山頂を踏んでいないのがこの山。
八ヶ岳の周辺を移動していれば西岳は嫌でも目につくし、その度に落ち着かない思いをしながらも、いつしかいたずらに時間が流れていた。
今の私には、標高差が1100m近くある山に登るのは荷が重いが、どこまでやれるか、の試金石にはなるだろう。

中央高速の勝沼辺りでは残雪豊かな南アが不透明ながら見えていたのに、登山口の富士見高原ゴルフ場の駐車場に着いた時は、周囲一帯はガスの中だった。

Static 今日歩いたとてもシンプルな登山道。
西岳は端正な三角錐なので、山道も素直なラインを描いている

Dscn3093 不動清水 ~ここから山道に変わる。
八ヶ岳の登山道の多くは転石の多い「ゴロタ道」で、歩きにくく、それだけ消耗させられる。
ところが西岳への道は土の路面がよく均されていて、その上勾配が緩いのでとてもオールドタイマーの足に優しい。
・・・とはいえ山登り、疲れないということにはならないのが残念。

Dscn3094 このところこんな五里霧中バッカリ。

Dscn3095 もうおなじみのギンリョウソウ

Dscn3104 森林限界にでると、ホンの一瞬、編笠山がボンヤリと。

Dscn3096 先ほど鈍足の私を追い抜いていったパーティ ~写真の点景として写させていただいたところ。

Dscn3097 気がついてポーズをとってくれた。
”ブログに載せますよ”というと”おじさん、頑張って!”とエールを送ってくれた。
おじさんと
「い」を抜いてくれた心優しき若者たちに祝福あれ!
・・・若いって、いいな~

Dscn3099 お腹ポッコリでんがな~気にせんといといて・・・

このところ絶えて久しくなかった標高差千m超を、標準タイム以下ででクリアしたというのに、下山の胸中には満足感がない。
むしろ挫折感にちかいものが澱んでいる。

何故なんだろう?
西岳の山頂に着いた大多数は、ここを通過点として、当たり前のようにサッサと編笠山へ向かう。
そこから富士見高原へ下る三角形を描くのである。

それが出来ない今の私は、羨望と嫉妬がないまぜになり、もう2度と手にすることのできないものを失っていることに気づいている。
”今の自分にできることをすればいいのだ”そう自分に言い聞かせても、諦めの悪さが心を沈ませているのである。

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感銘の一書~『氷壁・ナイロンザイル事件の真実』

2014年7月5日

高速バス料金が安い間(11日まで)に上高地に行きたいのだが(理由は文末に)週間天気情報ではとても出かけられ状況にない。
ジリジリと気ばかり焦る。

山岳書は記録、紀行、随想、案内などの実用書などにに類型化されるが、この一書は異色である。
そして、これほどエキサイティングな山岳書も多くない。
いや本質において、山岳書というジャンルに閉じ込めておくべきではなく、社会が持つ悪しき側面の告発書という性格をもっている、といえよう。

それが『石岡繁雄が語る 氷壁・ナイロンザイル事件の真実』である。
井上靖のl『氷壁』であまりにも人口に膾炙(かいしゃ)されている事件であるから、知っていたつもりになっていたが、これを読んで自分の知識がいかに皮相なものであったかを痛感した。

Img106

著者・石岡繁雄はこの事件の当事者である岩稜会の代表である。
1955年1月2日、前穂東壁の初登攀を狙った会員(石岡の実弟・若山五朗)がわずか50cmほど滑落したその瞬間にナイロンザイルがあっけなく切れ墜落死した。
当時は認識されていなかった「ナイロンザイルは岩角に弱い」という欠陥が露呈されたことを石岡は直感し、その究明のため石岡と彼が率いる岩稜会は立ち上がった。

地方の小さな山岳会の前に立ちはだっかるのは、ザイルメーカーであり、その企業との癒着が疑われる振る舞いを見せることになった大阪大学教授にして、日本山岳会の関西支部長であった。

権威がおこなった偽りの実験は世間を欺き、その結果石岡らは「自分たちのミスをザイルに転嫁しようとした」と社会からの指弾を浴びることとなる。

それからの、徒手空拳に等しい石岡たちの権力との闘いは長く辛酸に充ちたものであった。
しかし、信念に充ちた粘り強い主張は、徐々に浸透し、支援の手は三重県岳連から日本山岳協会へと拡大していった。

遂に彼らの主張が企業や学界などの固い岩盤の風穴をあける時がやってきた。
22年を要したが彼らの主張の正しさは全面的に受け入れらた。
勝ちえたその成果は、やがて今日の
「製造物責任法」の誕生の萌芽となったのである。
本人たちの意識にはなかったことだが、その法律は製造物に起因する多くの被害者を救う画期的なものである。
小さな人間が鉄の意思をもって立ち向かうことの力の測り知れない強さを思いしらされる。

石岡はこの間の壮絶な経緯を気負うことなく、自身も技術者らしく抑制の利いた語り口で淡々と語っている。

石岡をここまで駆り立てたものは何だったのだろうか。
登山家としてその征服に情熱を傾けた「屏風岩」登攀と同根の闘争心だったのだろうか。
いや、本来的に持っていた正義感だったのだろうか。
私ごときフツーの人間に分かろうはずはないが、その生き姿(生きざま、などという下品な言葉は私は絶対に使わない・・・)には打たれずにはいられない。

使命感を随所に体現した石岡の生涯は、小説にでも、映画にでも十分になりうると思うがどうだろうか。

Img307 昔のことだが、登山者の間で愛用された赤い表紙の「山日記」というのがあった。
私の手元にある山日記(1960年版)にはないが、1956年版の山日記には前記阪大教授による「ナイロンザイルは90度の岩角で13mまでの落下で切れない」との記述があるようである。
石岡らの闘いの一つはこの記事の訂正であるが、それが実現したのは17年後の1977年版である。

石岡自身は意欲に充ちた登山家であり、「ナイロンザイル事件」が起きなければ、『穂高の岩場』を生んだ登山家としての名声こそ得たとしても、一人の岳人で終わっていたかもしれない。

Img305 登山家としての石岡の光彩を放つ登攀記録としては1947年7月の屏風岩中央カンテ(凸角)の初登攀がある。
石岡自身は岩壁の途中で行動不能となるが、同行の旧神戸(かんべ)中学の二人が初登攀を成功させた。
石岡は2夜のビバークを経て、八高(現名古屋大)の岳友・伊藤洋平らに救出される。
この二人の間にも因縁の物語があるが、長くなるのでそれはまた別の機会に・・・

今、上高地で「ナイロンザイル事件」の展示会が開かれている。
それを見たいがための上高地行きなのだ。
それだけなら別に雨天でも構わないのであるが、ついでに徳澤の奥にある「氷壁の碑」(東壁で墜落死した若山五朗が荼毘(だび)に付された場所)あたりや、徳本峠辺りも歩きたいのでやはり晴天が条件になる。

それなのに、あゝそれなのに、何とも恨めしい空模様である。

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雁ヶ腹摺山からシオジの森へ

2014年7月2日

今日(6月30日)山梨県下は晴れの情報であった。
しかし、地上の天気情報は山には当てはまらない、というよくある結果になってしまった。
久しぶりの
雁ヶ腹摺山1874mは終始、霧に閉ざされた山歩きになった。

Static

登山口の大峠には、かつて大晦日に雁ヶ腹摺山に登るということを恒例にしようと心掛けたころ通った。
それが3年と続かずに遠のいてしまった。
そんなに古いことではないというように記憶していたがもう27年も前のことだと分かり愕然。

Dscn3089 霧が迎える大峠の登山口 ~行くしかないな。

Dscn3083 幻想的とでも言って慰めておくか・・・

Dscn3084 山頂手前には草原が広がる。

Dscn3085 山頂が目と鼻の先になった。

A 今はレアになった五百円札の裏面 ~雁ヶ腹摺山の山頂から撮影した富士の絵柄が使われている。

山頂から北へ延びる尾根を辿る。
標識がないことや、道型が薄いことなどあるが、尾根を外さずに歩けば迷う恐れはない。

Dscn3087 途中の三角点峰「大樺ノ頭」~展望はないし、顕著なピークでもないので、通過点にしか過ぎない。

大樺ノ頭から下りつくと「シオジの森」の入り口で、森の核心部を通るものと、端をかすめて大峠へ戻る近道とに分かれる。
こんな天気なので、ショートカットして出発点に戻ることとした。

シオジという樹種は、このエリアを歩いてみようと思い立ったガイドで初めて知った。
落葉喬木で真っ直ぐに伸びる幹の姿が良いらしい。
が、実際にこれがシオジだと確信できるものには出会えなかった。

Dscn3088 梢の間にゴールの大峠のたわみが見える。

インパクトに欠けた山歩きになったが、これで上半期の山歩きが終わった。
累積で53日になったから、今年の目標100日の半分は超えたこととなり、数字上はまずまずの結果か・・・
もう数日分を上積みできていたら、後半が楽になるのだが、膝痛と梅雨のため果たせなかった。

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