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「孤高のブナ」に逢いに~足尾・中倉山

2014年4月25日

そのブログにアップされていた一枚の写真が私を戦慄にも似た感動で貫いた。
冬枯れの姿のままの狐色の稜線に、凛冽の気をみなぎらせて立つたった一本のブナ。
それが「孤高のブナ」と呼ばれて地元の新聞などに紹介されてきた奇跡のブナであった。

私が訪問するブログはやはり登山に関するものが大半になる。
それも、無邪気な百名山詣でや、ガイドブックの常連のような山を採り上げるものには興味がない。
私自身も選ぶ山に天邪鬼的傾向はあるが、ブログの中では私など足元にも及ばないマニアックな山が登場するブログがあり、そうしたジャンルのブログが対象となる。
幾つかの定期的に訪問する中の「あんぱん」さんのブログにアップされた一枚に魂を揺さぶられたのである。
かつての乱伐や亜硫酸ガスで荒れ果てた足尾山塊の裸同然の稜線に立つ一本のブナ。
樹齢100年以上と推定されていて、その間の風雪はもちろん、鉱毒の煙害にもされされるという劣悪な環境でなお生き続けてきたその姿には畏敬の念を感じざるを得ない。
誰にも頼らず、誰にも媚びず、独り真っ直ぐに天に向かって己を高めてきたその姿に心を打たれずにいられなかった。
この孤高のブナを知り”一刻も早く逢いたい”という思いでいてもたってもいられなくなり、24日、時間ができるやいなや真っ先に駆けつけた。

Static 今日の行程 ~ピストンなので到着点がゴールに・・・

スタートは足尾最奥の「銅親水公園」の駐車場から。

Dscn2827 今を盛りのサクラ、桜、さくらの銅親水公園
ネット記事ではここからの取り付きが判然としなくて、あてずっぽう歩き始める。
駐車場からサクラが満開の親水公園の広場に下り、横切って「展望台」への擬木階段を上る。
その道はチェーンで閉鎖されていて行き止まりになっていたが、それを抜けると、やや緊張するトラバースがあって「導水管橋」に至り、獣の糞だらけのこれを渡り「仁田元沢」の左岸に沿う林道に下りた。

Dscn2828

後は淡々と登山口までの退屈な林道歩き。

Dscn2830 道中、至るところで目にする植生復元地。
「百年河清を俟つ」途方も無く根気のいる営みが営々とつづいている。
登山口には明示的なものは無いがテープがやたらについているのでそれと分かる。

Dscn2831 林道から分かれる登山口 ~登山道は予想外に明瞭で、トラロープなどもあって、どなたかで整備をしているようだ。
そこからは急登の連続。
帰宅してから算定してみたら平均勾配が30度ほどになった。
通常の登山道は10~15度くらいだから半端ではない。

Dscn2832 中倉山三角点峰から南下する尾根に乗る。

Dscn2836 主稜線が近づき、鞍部にお目当てのブナが望見できる。

Dscn2844 男体山を挟んで半月山(右)と社山(左)

Dscn2846 主稜線上から進行方向を見る。
目前に中倉山、中景に沢入山、ヲロ山と続き最奥に皇海山。
私は初めて目にする光景なので、すこぶる新鮮である。

Dscn2851 中倉山1550m山頂~三角点見当たらず・・・

Dscn2853 西へ足を進めると下にその姿が視野に入って来た。
破片岩が散乱し、一木一草もない荒れた山稜に奇跡のように一人立つブナ。
遠目には頼りなさそうな姿に映る。

Dscn2858 求めてきたものが直ぐそこに近づいてきた。

Dscn2854 ついにその足下にひれ伏した。

Dscn2857 近づいてその幹に腕を回してみた。
指先は届かなかった ~幹回り150cmほどになるだろうか。
このブナより樹格に勝るブナは全国至るところにゴマンと存在する。
しかし、それらは全て群れの中にいる。
このブナのように過酷な条件の中で、たった一人で己を琢磨してきたブナは他にはあるまい。

孤高のブナとの対話
「逢いたくて、逢いたくて、飛んできましたよ」
「お見受けしたところご高齢のようなのに、ご苦労なことでしたね」
「そういう貴殿こそお幾つになるのですか?」
「そうさね、どなたか訳知りのご仁が100歳以上と言ったようだが、自分でもようけ分からんね」
「どっちにしても長生きで、風雪やら、亜硫酸ガスの煙害などずいぶん辛い目にも会っているんでしょうね」
「誰にだっていろいろなことがあるのが一生でね。ここまで生きてくればもうたいがいのことには慣れてしまって、どうってことないようになってね・・・」
「独りで寂しくなんかないのですか?」
「仲間が誰一人いなくなってしまってな。でもね、独りでもないんだな・・・青い空、白い雲、お日さまや満月、優しい風も吹くし、鳥も休んでいくしでけっこう無聊を慰めてもらっているんだよ」
「名残り惜しいのですが、そろそろおいとましなければなりません。お見かけ通りの年寄りですから、もう2度とお目にかかることはできないでしょう。ご機嫌よう・・・」
「そうかいな、まァ気いつけてお帰えんなさい。自分から老け込むこたぁないよ。達者でな・・・」

人は一人では生きていけない。
群れるのは嫌いだ、と言っても孤高と尊敬されるどころか、単なる偏屈で片付けられるのがオチだろう。
それだけに孤高への憧れがある。
それがこのブナへ人を駆り立てるのだろうか。

 

最後に、なにかにつけて及び腰になりがちな私に、一時なりとも火をつけてくれた「孤高のブナ」に、貧しき者の一灯として高村光太郎の詩の一節を捧げたい。
   ・・・・・
   この原始林の圧力に堪えて
   立つなら幾千年でも黙って立ってろ。
              ~十和田湖畔の裸像に与ふ

 

この凛冽の詩魂が、能う(あたう)ならば、孤高のブナに伝わり、幾千年も、凝然とここに立ち続けていることを願いながら別れを告げた。

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コメント

世に孤高の・・・と云われる御仁が少なくありませんが、大概は純粋なる孤高ではないですね。
そういう意味で対話をされたこのブナこそ正真正銘の孤高・・・

敬意のお気持ちよく伝わりました。
足尾の山はやはり荒廃の色が濃く、寒々しく感じますね。

投稿: おキヨ | 2014年4月26日 (土) 12時37分

風花さん 、こんにちは

「孤高のブナ」、このタイトル、文面から新田次郎の「孤高の人」を想像し、加藤文太郎などの人物が登場している錯覚に陥りました。単独のブナがあるとは驚きです。 私も最近は残雪を求めて、山行の行先を考えていますが、鍋倉山の森太郎に会いに行く、と言う選択肢を持っています。樹齢が400年、根を気遣い、残雪の時以外は近ずけないんですよ。

投稿: | 2014年4月26日 (土) 15時36分

おキヨ様
孤高とは、社会や権威などにおもむねないで生きる、という明確な意思の持ち主に与えられる一種の称号のようなものではないですかね。
たいがいは単に社会に適応できない拗ね者、偏屈者で、決して高い精神性の持ち主ではないでしょう。
世の中の大多数は、そのどちらにも属さないごくごく普通の凡人で、もちろん私もその他大勢の中の一人です。
普通が一番です、よね。
足尾では緑の山の復活を目指して、植生作業が長年続けられていますが、荒廃全体から見れば、渡良瀬川に目薬を一滴垂らした程度の微々たるものです。
鉱山開発のために山野の木々を皆伐したことによる荒廃に、鉱毒が加わり、今の惨状です。
銅の採掘で得た利益と、自然と田畑に甚大な被害を与えて失ったものと、どちらが大きいのでしょうか。

投稿: 風花爺さん | 2014年4月26日 (土) 15時59分

岳様
さすがですね ~「孤高」から即座に加藤文太郎を連想されるのは・・・。
私も登山史上で誰が「孤高」に一番似つかわしい登山家であるかを思い浮かべた時、真っ先に文太郎が挙がります。
その不世出の単独行者・文太郎も山の中では人が恋しくなるようですね。
1930年1月5日、雪崩で剣沢小屋に泊まっていた華族の子弟ら6人が死亡しました。
文太郎はこの一行の仲間に入れて欲しかったのですが、婉曲に拒絶されやむなく一人で室堂に下り、危うく遭難から免れたました。
何が幸と不幸を分けるのか、神にしか分かりませんね。
鍋倉山の「森太郎」は聞いてはいますが、お目にかかってはいません。
5月下旬には同じ「関田山塊」の東端に位置する「天水越え」に行く予定はしています。
新緑のころのブナの極相林の見事さは言葉に尽くせませんね。

投稿: 風花爺さん | 2014年4月26日 (土) 18時31分

風花爺さん、こんばんは。「孤高のぶな」を思う気持ちは、みなんさん共通なところがあるようですね。鍋倉山の森太郎もやはり気になるところですが、なかなか訪れるチャンスがありません。気長にその時を待って、合いに行きたいものです。

投稿: あんぱん | 2014年4月26日 (土) 20時26分

あんぱん様
コメントありがとうございます。
貴ブログのお蔭で、山頂を目指さなくても、ズッシリとした手応えのある山歩きができることを知りました。
極相林としての見事なブナ林は各地で見られ、それはそれで素晴らしい感動を与えてくれます。
その中には目を見張るような巨木もあって、その圧倒的な生命力に言葉も失います。
それでも「孤高のブナ」が漂わせている、世俗への拒絶感、それゆえの寂寥感はこのブナでしか感じることができません。
あんぱんさんのブログからはこれからもいろいろな啓発を受けることになるので楽しみにしています。

投稿: 風花爺さん | 2014年4月26日 (土) 20時50分

寒々と荒廃した山野に一本のブナの大木。
雨風と雪に鉱毒という過酷な条件の下で幾星霜を経たことでしょう。
凛と気高く見る者を、その存在感に圧倒される眺めですネ。
こうした自然の営みを思えば人間の一生なんて短く儚いものです。

狐色に染まる鞍部と青空と白い雲、男体山をバックに
詩情溢れる立ち姿に畏敬の念が生じます。
ブナとの対話に心が揺さぶられました。

投稿: かおり | 2014年5月 2日 (金) 10時24分

かおり様
このブナでは、残念ながら枯れてしまいましたがあの三陸の「奇跡の一本松」のことを連想しました。
自然界でも人間社会でも孤高に生きることは辛くて厳しい道のはずです。
誰でもが行けない道をいくのですから、もしそうした生き方ができる人がいたら畏敬の念に打たれずにはいられないでしょう。
このブナにはそんな気持ちを仮託させるものがあるので、心ある人を引きつけるようです。
そんなブナに出会えて心から感謝したい気持ちになれました。

投稿: 風花爺さん | 2014年5月 2日 (金) 15時51分

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