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本中毒の自己弁護

2013年8月18日

身内のことなので詳らかにすることは慎しみますが、取り込みがあり4日の間その対応で、山歩きも、ブログもセーブしなければならない日々でした。
一段落したので、これからはいつものペースに戻れますが、ネタ切れ状態なので、在庫記事でお茶を濁しておきます。

もはや時間の問題ではあったが、国の借金がついに1千兆円を超えた。
赤ちゃんまで入れて国民一人当たりで800万円ほどの借金になるのだが、恐ろしいのはこれで終わりではなく、日々それが増え続けて いることである。
たとえ話によく使われる「今の日本は、家計に置き換えると月収40万円で、100万円の消費生活をしていて、その結果1千万円の借金が積みあがった」
極めて深刻な異常事態であり、これが個人のことであったら完全に自己破産状態にあるが、誰にも危機感がない。
焼け石に水とはいえ、最低限消費税アップは避けられないだろうが、それにも”今か?”との反対意見が根強くある。
このままでは国債価格の暴落(金利の暴騰)により日本そのものが破産する、という声がある一方、いや個人の金融資産がそれ以上あるから心配ない(国の借金を個人資産でチャラにする気?)とか国有資産があるから大丈夫(国の資産を中国にでも買ってもらうのか?)という楽観論もあり、どっちが正しいのか迷うばかり。

閑話休題~本中毒=ビブリオマニア(書痴)は他の悪癖(飲む、買う、打つ)よりはまし、とは思うが中毒なりの悩みがある。
本来、読むために手に入れるはずの本なのに、いつしか所有することそのものが自己目的化してしまっている。

東大教授だった河合栄治郎さんが「学生に与う」でこう語っている。
「書物は買わなくては駄目だ。・・・本を借りて済まそうとするのははしたない業だと思う。ほかのものは借りてもよいが本だけは自分のものとして座右において、いつでも手にとれるようにしたい」と。
・・・全く同感なのであるが、溢れる書物に溺れそうな現実ではそのようなゆとり心はなかなか持てない。

藤原正彦氏は父・新田次郎から「本代だけはケチるな」と言われ忠実に守ってきた。
その結果書物の山ができ「読破したのはざっと1割、斜めに目を通したのが3割、残りはほとんど開いてもいない堂々たる備蓄・・・」とのお嘆きで、オレばかりではないな、と胸をなでおろしたりもする。

私など世の本物の書痴の足元にも及ばないレベルだが、それなりの悩みはある。
いつか来る日に備えての始末のことが最大の問題であるが、目の前のこととしては、本が自宅と山荘に分散していることである。
何かの調べものをしたいとき、必要な本が手元に無いことがしばしば起こる。
その予防措置として、たとえば深田久弥の『ヒマラヤ登攀史』や『ヒマラヤの高峰』などのように重要な本は2冊をそれぞれに置くようにしているが、当然ながらすべての本というわけにはいかない。
それやこれやで惑いを抱えつつ、本漁りはどうにも止まらない。

Img290山口 瞳の『酒飲みの自己弁護』
お探し本だったが、行きつけの図書館に不用本として置いてあったので、小躍りしながらいただいた。
私も時々始末する本を置いてくるが、そのお陰か・・・
酒を飲む理由なんかいくらでもある ~というより、理由なんかどうにでもつけられるし、そもそも理由なんか要らない・・・というように下戸の私には見える。

Img015 日本のアルピニズム揺籃期~パイオニアたちの物語

Img023 深田久弥の山こと始め以前の貴重な記録。

Img013 卓越した思索の山書

Img021 驥尾(きび)に附すのは難しいが・・・

Img022 遅まきながらもう一度『古事記』の勉強を、などと・・・

もし、自分が余命半年と宣告されたとき、それでも本を買うことはやめないだろうか?

本などなくても立派に生きてる人は大勢いる。
その顰(ひそみ)に倣って蔵書の全部を処分できたら人生での瑣事(さじ)が一つ減り、どんなにスッキリすることだろう。
狭い部屋も少しは広くなるだろうし・・・。

でも、そうなったら・・・心に埋めようのない大きな穴がポッカリ空くのだろうな・・・。
本は心の飢えを充たすためにはどうしても欠かすことのできないものなのだ。
そのあたりが本中毒の自己弁護になるのだろうか。

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コメント

子孫もなく老い先も短い私、膨大な国の借金のことは無視して・・・。

内容も数も風花さんの10分の1にも満たない私の書棚にもやはり読んでいない本がかなりあります。
今までなぜなのかを深く考えもしなかったのですが、本を借りて読むというのがなぜ嫌なのかが今判りました。本は自分のものにして読む、貧乏人の私もこれを贅沢なこととは全く思いません。
そんなわけですから、絵画の専門書を私から借りていく方には惜しみなくお貸しするのですが、それとは別に内心は複雑ですね。人はなぜ必要な本を買わないのだろうと疑問に思っていたのです。
”書物を借りて済まそうというのははしたない”・・・実にその通りだと思いましたね。
これはあくまで人それぞれの感覚だと思うのですが、やはり知識を得る、感銘を受ける、楽しみを得る、ことに借り物で済ませるということははしたない行為だと同感です。借りる行為は合理主義とも思う一方で私的にはやはりはしたない心だと
感じます。此処だけの話です。^^

投稿: おキヨ | 2013年8月19日 (月) 11時34分

風花さん、こんにちは

岳も単身赴任時代、新幹線での出張が多かった事もあり、愚妻から送金される生活費の2割を本代に投入しました。本を借りて読む事は考えた事がありません。その結果は風花さん同様埋もれる結果になりましたね。今は空き家になっている実家にダンボールに入ったままです。最近はアマゾンのワンクリック買いがほとんどですが、中古が多くあり散財せずに済んでいます。

投稿: | 2013年8月19日 (月) 17時23分

おキヨ様
何かの本を読んでいて、その中である書物が紹介されていて興味をそそられ、落ちついて考えると、その本なんら確かあるはずと気づき、オレもなかなかのもんだな、と悦に入ることが一再ならずあります。
本は手に入れたその時読まなくても、いつか持っていて良かったと思える時が必ず来るものだと信じています。
なんといっても本は安いです。
一過性の消費にも意味はありますが、本は繰り返し愉しみ、役に立ってくれますから。

このままでは日本もギリシャやスペインのようになる、というのが財務省がためにするプロバガンダであればいいのですが・・・。

読み捨てするような本は借りる、ということでも済まされるとは思いますが、自分にとって必要と思われる本は買ってこそ著者の辛苦に報いられる唯一の方法でしょうね。

投稿: 風花爺さん | 2013年8月19日 (月) 19時15分

岳様
ご存知でしょうが「古本ハイキング」という言葉が山書マニアの間で使われていました。
休日になるとザックを背負って神保町、早稲田、中央線沿線の古書店をめぐり、本あさりに現を抜かすアホの自嘲的な響きがあります。
私もその端くれでした。
あてどなく探し回るのですから足が棒のようになりました。
今やアマゾンや日本の古本屋で効率よく探せるので大助かりです。
でも、この合理的な本探しでは、あの古書店の独特の匂い、雰囲気は味わえませんね。

時代の変化で神田はともかく、ほかの地域では古書店の姿が次々に消えていき、この現象はさみしいかぎりです。

投稿: 風花爺さん | 2013年8月19日 (月) 19時27分

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