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2011年8月

尾瀬を守るのは誰か?

2011年8月28日

♪夏は逝くのに(正しくはもちろん”夏がくれば”・・・です)思い出す 
                             遥かな尾瀬 遠い空♪

江間章子作詞のこの名曲がラジオから聞こえてきたのが1949年。
遥か、遠い昔のことになる。
その間、尾瀬は日本が世界に誇る自然資産の地位を保ち続けている。

その尾瀬が今、歌詞にある「揺れゆれる浮き島よ~」のとおり揺れている。

東日本大震災がもたらした波紋は思いも寄らないところにも現れるが、これもその一つ。

尾瀬の保護・管理に要する費用の捻出に頭の痛い問題が生じているのだ。
この費用は年間約7・2億円。
これを国(環境省)4億円、群馬県1・2億円、そして東電が2億円という内訳で負担しているのが現状だそうである。

東電は尾瀬国立公園の40%を所有し、その中の特別保護地域では実に70%を所有している。

そもそも尾瀬の歴史を概観すると
1905年、横田千之助という代議士が1800町歩(・・・と言われても、その広さがどれ程のモノカピンと来ない・・・)を1万円(今日の貨幣価値にするといくらくらいか?)で取得。
その後、ややこしい権利の変遷があり、最終的には東京電力が水力発電のため手に入れて今日に至っている。

東電の目論見通り、ここに貯水施設が設けられれば、尾瀬ヶ原も尾瀬沼も水没する運命にあった。
しかし、懸命な保護運動の高まりで東電の計画は頓挫。

1989年、入山料徴収の議論が起こったが、実現には至らず。

1996年、東電はダム計画を断念し、水利権を放棄。  

2007年、「尾瀬国立公園」が日光国立公園から独立して誕生。

私も尾瀬には時折足を運ぶが、木道の整備、植生の復活などでうかがえる東電(実務は子会社の尾瀬林業)の貢献には敬意を覚えている。

Photo           Pokegi_yukata286

福島原発で露呈した東電のもろもろの体質には怒りも覚えるが、こと「尾瀬」の自然保護についての貢献は評価している。

東電は5月26日、今のところ「尾瀬の売却はしない。環境保護についても維持していく」というスタンスにあることを公表。

しかし、東電のこれからの気が遠くなるような賠償の原資調達を考えれば、果たして現実にそれが可能だろうか?
そもそも、東電にはもはや尾瀬を所有する意味は喪失しているのではないか。
それゆえに尾瀬の国有化の主張も多い。
私も「尾瀬」が国民共有の自然資産であり続けるためには、一企業の所有から、国が所有する方向に舵を切るのが正しい方向と思う。

ところで、私は以前から「尾瀬」の環境保全の費用に充てるためには、入山料を徴収すべしという立場である。
論拠~尾瀬の環境保護には現に国費4億円が投入されている。
いうまでもなく税金である。
尾瀬に行かない人も、行けない人も、負担していることになる。
税の公平性から乖離している。
それなら「受益者負担」の原則に従って「入山料」を払う、というのは合理であろう。

アレだけの自然景観を楽しめる代償を少しばかり負担しても文句はあるまい。

現に大方の意見もそうである。

尾瀬の入山者数は年間30万人ほどらしいから一人千円の入山料をとれば、徴収のコストを差し引いても、東電の負担がゼロになってもまかなえる勘定になろう。

徴収する、となると徴収のコストが発生のほか、技術的には面倒なことが介在してくるだろうから、イザやろうとしても、頓挫した過去もあるくらいだから、ことは簡単ではないだろうが・・・・

結論~尾瀬を守るのは「尾瀬」に行く私であり、あなたです。

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渓流に涼を求めて~奥秩父・ナメラ沢

2011年8月19日

東京がこの夏一番の暑さを記録した18日、笛吹川の上流の支流の一つ「ナメラ沢」で渓流遡行を楽しんだ。
ナメ滝(緩い傾斜の川底が滑り台のようになっていて、水がその上を滑るように流下する滝)が多くて易しい沢、ということになっている。

雁坂トンネル料金所の右手前の広い駐車場には1台も無い。
車道になっている「旧雁坂峠道」は「沓切沢橋」から登山道に変る。

P8180371 ほどなく雁坂峠道から「ナメラ沢」への下降点。 

転げ落ちそうな急坂を下ること数分で「クドノ沢」に下りつく。
この上流の「峠沢」の源流が「雁坂峠」となる。
ここで支度を整え流れを「ナメラ沢」との合流点まで下る。

初めからこの沢をツメ上げるつもりはない。
適当なところで戻ることに決めている。

この場合、肝腎なことは「必ず戻れる確信が持てる」ことを確かめながら進むこと。

P8180380 左が「ナメラ沢」(流れは見えているより広い)

遡行開始~とは言ってもゴーロー(石がゴロゴロしている)歩きが暫らく続き

P8180373 小さなナメや  P8180374 くの字状のナめ、と続くのを、適当に遡行していく。

P8180375 初めて滝らしい2段、5mの滝
画面からは切れている、右端のザレから取り付き、ガイド記事の通り、上部の木の根に手が届いたのだが、段差が大きくて、「腕力乏しく、体重のみ一人前以上重い」身の悲しさ、乗り上げられない。(帰りは重力に従い、難なく下降できた・・・)

仕方なく左から高巻きして落ち口へ出た。

P8180376 釜を持つナメ滝。奥に20mのナメが見えている。

P8180379 2段20mのナメ滝下。
ガイドでは左端が上れるようだが、取り付いてみると、岩がツルツルでとりつくシマが無い。

左の急な土の斜面を巻けば何とか滝の上に出られるか。
でも帰りはどうなる?
20mのロープは持ってきているが、支点が取れるか?

結局いつもの根性なし丸出しでここまでと決めた。

サラサラ流れる水が生み出し清涼な風が心地よく、貧しい昼食などする。

沢歩きの時はもう少し食事に工夫をすべきだな・・・と反省。

渓流を下り、渓谷から離れれば、山の中でも暑い夏の日が待っていた。
                                                                                                    

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鎮魂の「御巣鷹の尾根」から大蛇倉山へ

2011年8月11日

「1985年8月12日(月曜日)は何の変哲もない、ありふれた夏の一日で終わるはずだった。」

Pokegi_yukata282 これは吉岡忍さんの『墜落の夏』の書き出しである。                                                    

そう、いつもどおりの日常で終わるはずだった、あの日の大惨事からもう26年も経つのか!

8月は日本人にとっては辛い記憶が蘇る月である。
2度にわたる原爆投下、終戦の日、そして520人の犠牲者を出したこの日航機の墜落事故。

この現場へ鎮魂のため詣でることを思いながら長い無為が残っている。
今年こそ、の思いを強くしていて、今年もやってくるその日の直前の10日、ようやく長年の宿題を果たし終えた。
出かけてみればこれまでの逡巡がウソみたいに造作のないことだった。

山荘から2時間ほどで「御巣鷹の尾根」の上り口駐車場。
そこから木立の下、擬木の階段を上り「昇魂の碑」の前に立った。
Photo 積年の思いを込めて合掌。

命日が近いせいかここまでくる人の数は多い。

南から墜落を始めた日航機は群馬県・東南隅の小さな尾根の南面に激突した。
情報が錯綜するうちに、現場は”御巣鷹山辺りらしい”ということで、当時は便宜的な意味もあって「御巣鷹山」が使われていた。
実際の現場は御巣鷹山の南、約2kmに位置しているが、固有名詞の無い場所なので、全然関係の無い「御巣鷹」が用いられ「御巣鷹の尾根」が固定した。
「日航の尾根」とでもすれば歴史的には分かりやすいだろうが、日航関係者にとっては生なまし過ぎるかな・・・。

さて、と写真を撮ろうとしたらスイッチが作動しない。
確かめたら電池が入っていないではないか!
シマッタ! 充電器に差したままにしていたらしい。

そんなチョンボでここからの写真はネット上で勝手にお借りしたものです。

ここだけではいかに軟弱な私とはいえ物足りない。
そこで、この夏一番の猛暑になる予報ではあるが、上信国境尾根上にある超マイナーな山「大蛇倉山」(おおだぐら、だいだぐら)1962mへ向かう。

慰霊碑の間を抜けて「御巣鷹の尾根」が西へと高まっていく尾根を辿った。
標高差400mほどのこの尾根の急なこと、半端ではない。
戻りの下降が思いやられる。

気息奄々、国境稜線に乗り上げ、そこから北へと、微かな踏み跡を拾って「大蛇倉山」へ着いた。

西の端にある露岩の上からは西側が開けていて「奥三川ダム」を隔てて目の前の「御座山」から野辺山の「天狗山」や「男山」を見ることができた。

Photo_2    Photo 大蛇倉山の西端からの八ヶ岳方向。

昇魂の碑まで戻ると、陸上自衛隊の隊員が続々とやってくる。
何かの訓練か?それとも慰霊なのか?
女性隊員も交じっている。
この暑さなのに完全装備。
いかにもバテている隊員もいるが、今日のコンディションでは無理もないだろう。

あのころのことにつながる断片を蘇らせながら山を下りた。
そして、東日本大震災に見舞われたこれから、御巣鷹の記憶の風化に拍車がかかることを憂えた。

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映画「ヒマラヤ 運命の山」を観る

2011年8月6日

ラインホルト・メスナーという超人がいる。
1944年南チロルに生まれた登山家である。
超人の所以は?
アルパインスタイルで、しかも無酸素でヒマラヤ8千m峰を登るという登山スタイルを最初にやってのけた男である。

ドロミテで登攀の腕を磨いたラインホルトは若くして、ヒマラヤで「魔の山」とか「人食い山」とか呼ばれていた「ナンガ・パルパード」8126mのドイツ遠征隊に招聘される。

かつて、ナンガ・パルバート(ナンガ・パルバット)=NANGA PARBAT(裸の山という意味)はドイツ宿命の山とされていた。
1932年以来、ドイツは数次の遠征隊を出し、1953年ヘルマン・ブールが奇跡の単独登頂するまで多くの著名な登山家を失っている。

Img120              Photo

映画は1970年そのナンガを南の「ルパール壁」から26歳のラインホルトが弟のギュンターと挑んだ物語。
登頂には成功するが、全ての装備を捨て、丸腰になった兄弟は、頂上は落としたが、登ったルートを下降する術がなかった。
やむなく下降ルートを未知ではあるが、やや容易と思える、西側「ディアミール谷」に取った。


決死の下降での後、もう少しで安全地帯というところで弟・ギュンターは雪崩で行方不明となった。
瀕死のラインホルトは這うようにして山麓にたどり着き地元民に救われた。

この登山は図らずもナンガを東西に初めて横断したことになるが、隊長ヘルリヒ・コッファーは「名誉欲に駆られたラインホルトが初めから計画したもの」と非難し、登頂を認めなかった。

登頂者としての栄誉は、実際には第2登のフェリクス・クーエンとペーター・ショルツに与えられた。

アタック中での信号弾の手違いもあって帰国後、両者の確執が生まれ長い間、互いの不信を募らせていた。

R・メスナーはこの登山キッカケにして大規模な遠征隊よるヒマラヤ登山と絶縁し、アルパイン・スタイルによる、無酸素でのヒマラヤ8千m峰14座全座の登頂という偉業を、世界で最初に達成する。

Photo 映画のシーン。メスナー兄弟の高所ビバーク。

Pokegi_yukata284 1978年、単独で再登頂した時のセルフタイマーによる頂上撮影。

ギュンターの遺体は遭難から35年を経た2005年、ディアミール河の末端で発見された。  

待ち遠しい思いで待っていた封切日。
その一番上映で観た。

さて、映画の出来栄えは?

映画でヒマラヤの大きさや、その巨峰への登攀がいかに困難であるかを伝えることは、不可能に近いことを、改めて認識させる、そういう出来栄えであろう。

しょせん、人が作るものの限界である。                                   

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