変貌する山~上信・浦倉山の辺り
2009年7月26日
14日に「関東地方は梅雨明けしたとみられる」という発表があったのに、その直後から連日梅雨空。
「戻り梅雨」というより、気象庁のフライイングだったのでしょうか?。
さて、山のたたずまいそのものは変わっていないのに、その山を囲む環境が著しく変化してしまった、という例は高度成長期以後、そんなに珍しいことではなくなりました。
浅間山から北北西に約18kmほど離れたところに「四阿山(あずまやさん)2355mがあります。
深田久弥の「日本百名山」の一つです。
浅間山と四阿山の間に「鳥居峠」という群馬と長野の境になる峠があります。
昔むかし、日本武尊が東征の帰途、この峠に立ち、東の方を振り返り、自分の身代わりになって海に身を投じた妻<弟橘姫>を偲んで”吾妻はや”と嘆いたそうです。
そのため峠の北に聳える山を「吾妻山」と名づけてそうです。
信州側では「四阿山」と呼んでいたそうですが、それが定着したのでしょうか。
浅間山と四阿山の間一帯はキャベツ生産日本一という「嬬恋村」です。
そのキャベツ畑を見下ろす「愛妻の丘」のデッキで大声で今時の<ヤマトタケルノミコト>が”○○さーん、大好きー”などと叫ぶイベントはTVでご覧になった方も多いと思います。
この「四阿山」から北へ「浦倉山」~「土鍋山}~「御飯岳」などと連なる稜線をかつては「上信国境尾根」などど呼び、登山道が無いため、一部の篤志家だけが歩く山域になっていました。
私も半世紀前、鳥居峠から四阿山に登り、そこから国境稜線を踏破する一歩を始めたことがありました。
身の丈ほどの笹薮を、全身で体当たりするように漕ぎ分け、なんとか浦倉山を超え、ツェル(簡易テント)とでのビバーク(野宿)をしました。
翌朝、濃霧の中を前進し、北へ向かっているはずが、一瞬の霧の晴れ間で左に見えるはずの「北アルプス」が右に見え、生まれて初めて、リングワンデリングを経験し、挫折して途中の道無き尾根を下降してしまいました。
そのときは再起を期していたのですが、それっきり・・・。
月日が経ち、浦倉山の東側の斜面が「パルコール嬬恋」という名のスキー場としてデビューし、そこのリゾートホテルに滞在しての、安サラリーマンとしては少々贅沢なスキーを何度か楽しみました。
長いゴンドラの終点が「浦倉山」直下まで延びていることはその時知りましたが、そのころはスキーに夢中で、山頂まで行ってみようというきはサラサラ起こらなかったものです。
さらにまた月日が経ち,山歩きの再開。
そして、このたびある必要があってそのついでに「浦倉山」を再訪しました。
ゴンドラの山頂駅から真っ直ぐに向かえば20分足らずで山頂に着きます。
思わず”ウソー”と言ってしまいそうです。
50年前の記憶は甦りませんが、少なくともこれほど開放的ではなかったと思います。
いずれにしても往時を偲ぶよすがは何も見当たりませんでした。
よくある「浦島太郎」状態ですね。
浦島太郎はほんの数日「竜宮城」で夢見るような時間を過ごしただけなのに、帰ってくるとこの世では700年経っていたそうです。
太郎さんが突然に遭遇した700年後の光景は、今では数十年で生まれてしまいます。
それにしても「乙姫」さんは<開けてはいけない玉手箱>なんぞを、どういうつもりでお土産として渡したのでしょうね?
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