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2009年7月

変貌する山~上信・浦倉山の辺り

2009年7月26日

14日に「関東地方は梅雨明けしたとみられる」という発表があったのに、その直後から連日梅雨空。
「戻り梅雨」というより、気象庁のフライイングだったのでしょうか?。

さて、山のたたずまいそのものは変わっていないのに、その山を囲む環境が著しく変化してしまった、という例は高度成長期以後、そんなに珍しいことではなくなりました。

浅間山から北北西に約18kmほど離れたところに「四阿山(あずまやさん)2355mがあります。
深田久弥の「日本百名山」の一つです。

浅間山と四阿山の間に「鳥居峠」という群馬と長野の境になる峠があります。
昔むかし、日本武尊が東征の帰途、この峠に立ち、東の方を振り返り、自分の身代わりになって海に身を投じた妻<弟橘姫>を偲んで”吾妻はや”と嘆いたそうです。

そのため峠の北に聳える山を「吾妻山」と名づけてそうです。
信州側では「四阿山」と呼んでいたそうですが、それが定着したのでしょうか。

浅間山と四阿山の間一帯はキャベツ生産日本一という「嬬恋村」です。
そのキャベツ畑を見下ろす「愛妻の丘」のデッキで大声で今時の<ヤマトタケルノミコト>が”○○さーん、大好きー”などと叫ぶイベントはTVでご覧になった方も多いと思います。

この「四阿山」から北へ「浦倉山」~「土鍋山}~「御飯岳」などと連なる稜線をかつては「上信国境尾根」などど呼び、登山道が無いため、一部の篤志家だけが歩く山域になっていました。

私も半世紀前、鳥居峠から四阿山に登り、そこから国境稜線を踏破する一歩を始めたことがありました。
身の丈ほどの笹薮を、全身で体当たりするように漕ぎ分け、なんとか浦倉山を超え、ツェル(簡易テント)とでのビバーク(野宿)をしました。
翌朝、濃霧の中を前進し、北へ向かっているはずが、一瞬の霧の晴れ間で左に見えるはずの「北アルプス」が右に見え、生まれて初めて、リングワンデリングを経験し、挫折して途中の道無き尾根を下降してしまいました。
そのときは再起を期していたのですが、それっきり・・・。

月日が経ち、浦倉山の東側の斜面が「パルコール嬬恋」という名のスキー場としてデビューし、そこのリゾートホテルに滞在しての、安サラリーマンとしては少々贅沢なスキーを何度か楽しみました。

長いゴンドラの終点が「浦倉山」直下まで延びていることはその時知りましたが、そのころはスキーに夢中で、山頂まで行ってみようというきはサラサラ起こらなかったものです。

さらにまた月日が経ち,山歩きの再開。
そして、このたびある必要があってそのついでに「浦倉山」を再訪しました。

ゴンドラの山頂駅から真っ直ぐに向かえば20分足らずで山頂に着きます。
思わず”ウソー”と言ってしまいそうです。

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50年前の記憶は甦りませんが、少なくともこれほど開放的ではなかったと思います。 
いずれにしても往時を偲ぶよすがは何も見当たりませんでした。

よくある「浦島太郎」状態ですね。

浦島太郎はほんの数日「竜宮城」で夢見るような時間を過ごしただけなのに、帰ってくるとこの世では700年経っていたそうです。

太郎さんが突然に遭遇した700年後の光景は、今では数十年で生まれてしまいます。

それにしても「乙姫」さんは<開けてはいけない玉手箱>なんぞを、どういうつもりでお土産として渡したのでしょうね?                                                

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ツアー登山の問題~大雪山系の遭難に思うこと

2009年7月19日

このたびの大雪山系での痛ましい大量遭難は二つのツアー会社(アミューズトラベルとオフィスコンパス)とは多少の縁があり、ガイドの一人は良く知っている方なので、全くの他人事に思えないので、感じたことを書いてみます。

直接の原因はおおむね、雨と強風による「低体温症」とされています。
ツアー登山とはいえ「トムラウシ山」を目指すくらいのメンバーですから、それなりの経験と装備に不足は無かったと思います。
・・・ところが、観光旅行の延長くらいの気持ちで参加した人がいるらしく、そこまでチェック出来ない主催者、ガイドはこれではたまったものではありません。

商業ツアーであることのもろもろの制約、悪天候、判断ミスなどが重なりあった上に、不運もあってこのような悲劇に至ったものでしょう。
いずれにしても、低体温症にいたるまでの過程はこれからの検証で明らかになっていくはずですが、いくら元気な中高年とはいえ、特に風による体温低下と体力消耗に対する抵抗力は、加齢により衰えているいることを証明しているといえるでしょう。

主催者とガイドに対する批判と非難の嵐は厳しいものになるでしょうが、詳しい状況が判明するまでは軽々しい評価は控えるべきではないでしょうか。

少なくともガイドはその状況におけるベストを尽くそうとしながらも、刻々と状況が悪化していく中で、一番辛い思いをしながら命を絶っていたはずです。

いつもながら、マスコミや識者がさまざまに批判をするでしょうが、多分こうした表面的なコメントからは語られることのない遠因について、これまで何度もツアー登山に参加していて私が感じていたことに触れてみます。
それは「ツアー登山に内包されている本質的な問題(弱点)」です。
そのツアーが何事も無く終われば、見過ごされているものですが、このたびのような状況になるとたちまち顕在化し、牙を剥き、悲劇的な結果をもたらす、という危険性をはらんでいる性質のものです。

以下それを書き連ねてみます。

1、リーダー不在
 トムラウシ山登山のようなレヴェルの高いツアーの場合、引率同行するのはガイドと添乗員(報道ではこれもガイドとしていましたが)です。
つまり、リーダーとしてのミッションを明示されている存在が無いのです。
ガイドによっては危急の場合、見事にリーダーシップを発揮する人もいます。
かたや、ツアー会社との契約関係や、参加者が自分にとっても間接的ながら「客」であることを意識して、会社や顧客の意向を忖度して、決断が鈍るガイドもいます。

添乗員はこうした場合、会社にお伺いを立てるし、会社は現場の状況の詳細が把握できないから、現場で決めろ、というしかないのです。

すなわち、リーダーが統率する普通の登山パーティと異なり、断固たる意思決定が出来ない仕組みになっているのです。

2、参加メンバー構成が即席でマチマチ
そのツアーに参加するだけの一過性のパーティ編成です。
登山のキャリアも体力も、装備もマチマチ。
しかもガイドはそれを把握する術もないままにスタートし、途中で修正をしながら進めていくのです。
日帰り程度の山行で、天候にも問題が無ければこうした寄せ集めのパーティーでも何事もなく終わります。
それが今回のような状況に置かれると、集団の力が発揮されるどころか、弱点を露呈し、制御が効かないバラバラの因子となってパーティは空中分解してしまうのです。

3、天候が悪くても止められない
交通手段の確保、宿泊先予約、スタッフ編成などで、天候による柔軟な対応が出来ない宿命を負っています。
従って悪天候でも強行せざるを得ず、危険を感じる人はキャンセル料を払って危険を回避するしかないのです。
もちろん、途中で引き返すことはありますが、今回の場合では引き返すのは進む以上に困難。
避難小屋で停滞する、という手段はあったのでしょうが、日程(経済的理由で)にガンジガラメになっているためその選択が許されない、という状況にあったと思われます。

4、品質が違うのに価格は同じ
物でもサービスでも品質によって価格が違うのは当たり前。
ところがツアーの世界にはその常識がありません。
この場合の「品質」の上下を決定する要素の大きなものはガイドのレベルです。
経験豊かで、リーダーの資質に恵まれたガイドなら、ユーザーが享受できるサービスや安全はは格段に高くなります。
この反対もあるわけです。
この点の合理性の無さについて以前、ムリな注文を承知で「アミューズ社」に問題提起したことがあります。
もちろん納得のいく説明は同社ならずともできようがありません。
せめて、事前にガイドが誰であるかだけでも知った上で参加するかどうかを判断したくても、積極的には明示しません。
結局のところ、運不運になってしまうのですが、身の安全にかかわるような状況に追い込まれたとき、運が悪かった、とスンナリ諦められるでしょうか。

私も属している山歩きの会では(ほかの会の多くもそうしているようですが・・・)降水確率がある割合を超えると催行を中止します。

エベレスト登頂者でもあるガイドの「I」さんを招いて講習会を開いたとき、そのことを話したところ、大変羨ましガっていました。
その心境、よーく分かります。

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『北八ッ彷徨』から『八ヶ岳挽歌』へ

2009年7月19日

北海道・大雪山系で10人もの方が遭難死されたことは痛ましい限りです。
それも50~60代の高齢者ばかり。
いかに今の高齢者が元気であるとは言え、体力が落ちているのは確かなことです。
「美瑛岳」一行に私の知り合いのガイドが含まれていて、彼は救急ヘリで搬送され、生命には別状ないとの報道でした。
しかし、心優しい彼は、メンバーの一人を失ってしまったという心の痛みを十字架として、生涯背負って行くだろうと推察すると、切なくなります。
原因は風速20mを越える強風で体温を奪われる「低体温症」のようです。
山では雨より、風の方が遥かに危険なのです。
不謹慎ですが「山男の歌」では
   ♪山で吹かれりゃよー  若後家さんだよー
と歌うのは真理なのですね。

そうではありますが、やはり山歩きで嫌なことは雨に降られること。
しかし、稀ではありますが、雨に降られるのも悪くないかな、と思えるエリアがないこともないですね。
森と湖の高地「北八ヶ岳」がそれです。
北八ッの魅力を構成するものは、シラビソ、トウヒなどの昼なお暗いうっそうたる樹林帯と、その足元を覆う厚い苔です。

私もこの梅雨時、あえて北八ッを少し歩いてみました。

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さて、北八ッといえば真っ先に浮かぶのが山口耀久さんの『北八ッ彷徨』。
山の本としては屈指の名著です。

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1960年 創文社

「北八ッ」がまだ「北八ッ」らしかった幸せな時代に、苔むした樹林の中を気侭に歩いた優れたエッセイです。

その中の印象的な一節を引いてみるとこんな風です。
小広い平地になってひらけたその峠は、風と雪と、乱れ飛ぶ落葉松の落ち葉の、すさまじい狂乱の舞台だった。風に吹き払われる金色の落葉松の葉が、舞い狂う雪と一緒にいちめんに空を飛び散っていた。
滅びるものは滅びなければならぬ。一切の執着を絶て!」

その幸せな時代は長くはつづきません。
緑なす草原の「麦草峠」を越える車道や「日本ピラタス」などという珍妙なネーミングのロープウエイの開通。
森林高地「北八ッ」が変貌するのに時間はかかりません。

かつての聖地がズタズタに痛めつけられて様を正視するのは偲びがたいものだったでしょう。

幸福すぎる思い出が壊されていくのがこわくて山口さんは「北八ッ」から遠ざかります。

そして28年が経過し、美しく滅びたものへの挽歌を奏でました。

Photo

それがこの「八ヶ岳挽歌」です。
1996年 平凡社

山口さんが先に引用した描写をした小さな峠は、今は林道が交錯していてその情景を思い浮かべるのも難しくなっています。

私も山口さんの足元にはおよびませんが、往時のこの山域を少しだけ知っています。

北八ッらしくて好きだったのは「麦草峠」
うっそうとして瞑想的な北ッ山域には珍しいくらい、牧歌的な緑の大草原が広がり、ヤナギランなどの花が彩っていました。
暗い森を抜けてこの草原に飛び出したときは、誰もが歓声を挙げたものです。

尾崎喜八さんの詩に「峠」という作品がありますが、その終わりの3行。
   風は諏訪と佐久の西東から
   遠い人生の哀歓を吹き上げて
   まっさおな峠の空で合掌していた

ここに描かれた峠が「夏沢峠」であることは詩から読み取れるのですが、私にはどうしても「麦草峠」としか思えないのです。

それくらい詩情に満ちた峠らしい峠だったのですが、今は車道が「人生の哀歓」など感じる間も無く、人々をあわただしく通過させてしまいます。

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戦い済んで日が暮れて・・・東京都議選

2009年7月13日

都議選は予想通りの結果になりました。
事態を正視できない自民党は「地方選と国政選挙は違う」と建前を言うしかないのですが、今度の都議選は目前に迫っている「衆院選」に直結している前哨戦であったことは、誰の目にも明らか。

政権の盥回しが3代続いて、それだけでもウンザリなのに、マンガ大好きの麻生さんがまた、その言動でマンガを描いているのかと、錯覚しそうなあれこれでたまっていた、怒り、呆れ、愛想尽かしの果ての都議選だったのですね。

気の毒なのは前哨戦でスケープ・ゴートにされた自民党の都議候補でした。

麻生さんは「政権交代は手段であって目的ではないでしょう?」としきりに言っていました。
たしかに普通ならそれは正論です。
しかし、今の民意が「先ずは政権交代」にあることを読めない麻生さんの鈍感さが、この事態につながっているのです。

本気で良い政治を求めて「一度、民主党にやらせてみようじゃないか」という民意を。

これからいよいよ秒読みに入る総選挙までの間に民主党が、例の得意技
「ホップ ステップ 肉離れ」
を起こさなければ政権交代は必至でしょう。

確かに民主党の未熟さには不安が伴います。
民主党が主張していることの、たとえば官僚支配からの脱皮などの政策が簡単に実現するとは思えません。
しかし、そうではあっても、私たちが少々のことには目を瞑り、辛抱して、自民党にいつでも変わりうる政党を育てなければ、この国に国民が望む政治状況は生まれません。

「驕る平家は久しからず」という歴史の古くからの教訓があるにもかかわらず、私たちはあまりにも長いこと自民党の一党支配政治を許してきました。
絶望的に堕落した今日の政治状況をもたらした責任は私たち有権者にあるのです。

政権交代が可能な状況を常に持っている・・・・
その緊張関係が良い政治風土を造る基礎的条件でしょう。

その緊張関係が政策を磨き、良い政治家を育て、かつて日本人が実際に学んだ明治維新のような再生に繋がっていくのではないでしょうか。
長い道のりにはなるでしょうが・・・。

良い政治を望むなら、有権者一人ひとりがそれを生み出す自覚をもたなければならないのです。
「国民は自分たちの民度以上の政府を持てない」以上、私たち自身が政治に対する眼力を磨き、折角の権利「一票」を行使する責任があるのですね。

ナーンチャッテ・・・

それにしても「都議会議員」って何する人?
私にはそれは透明人間みたいで、存在がかんじられないのです。
そんな透明人間が127人もいるというのだから・・・。

一つには小選挙区制で、国会議員があたかも特別区の代表のようにも思えて、都議と重なってまい、いったいドッチの方がエライの・・・?
それに「区議」がいて・・・これらの関係はどうなっているのだ・・・。

追記
この記事をアップした後、悩める(イヤほんとはノーテンキなのか?)宰相・麻生さんがようやく8月30日の「総選挙」を決断しました。
いよいよ「天下分け目」の決戦ですね。
その「闘いが済んで、日が暮れた」後、どんな夜明けが日本に訪れるのでしょうか?

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三角点を大切に~再び「点の記」を」観て

2009年7月10日

はっきりしない空模様で足止めが続きます。
そこで「剣岳・点の記」を再び観てきました。

目が節穴状態の私では、2度目にしてようやく見えたことが沢山あって、この映画の出来の良さの理解が少し進みました。

例えばこんな場面。
苦難の末ようやく近づいた「剣岳」山頂直下で、案内人<宇治長次郎>は”私の務めは案内するだけ”として先頭を<柴崎芳太郎>に譲ろうとします。
それを柴崎は”私は最後まであなたに案内して欲しいのです”と長次郎を説得する。

この場面、最初私は、史実的な解釈で、長次郎が「禁忌の山」に最後の一歩を記すことを躊躇って、と読んだのですが、ここは素直に、言葉少なに、2人が互いを立てあう美しいシーンと感動して良いのだと思いました。

この場面はもちろんフィクションです。
思い出すのは「エベレスト」初登頂のときのこと。
下界に下ったとき<E・ヒラリー>と<テンジン>を悩ませたのは”どちらが先に頂上へ着いたのか?”という質問の嵐.。
二人にとってはどうでもよいことだったのに・・・。

この教訓から1954年の「K2」初登頂のイタリア隊は2人の登頂者(A・コンパニョニとL・ラチェデリ)の名前を長いこと公表しなかったのです。

山の世界での絆が下界に下りた途端に、世俗にボロボロにされていく、登山史では珍しくないことです。

閑話休題(それはさておき)

書きたかったことは「三角点標石を大切にしましょう」ということです。

                                           

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「剣御前」に設置されている三角点と「剣岳」
             (山と渓谷誌から)

この映画に描かれる測量作業の困難さは、決して作り物では無いでしょう。
全国には約103300点の標石が設置されているそうです。
それらの困難な作業の殆んどが、誰の目に触れられることなく、語れることも無いままに、ヒッソリと進められられたもの。

陳腐な言い方ですが三角点標石は「血と汗の結晶」なのです。
その結果として、貴重な文化財、公共の財産になっているのです。
大切にしなくてはならないことは自明。

なのに、無神経な人が多いのがとても気になります。
標石を囲んで車座になり飲食するグループ。
写真を撮りたい、タッチしたい三角点愛好者には迷惑です。
標石に尻を乗せている人・・・ 椅子ではありませんよ。

中にはあろうことか、上にコンロを載せて煮炊きする人たちまで。
こんなことを目撃すると、黙っていられず、ついお節介な注意をしてしまいます。
”ウザイジジイだ!”という雑言を背中で聞きながら・・・

山を心から愛せる人だったら、山頂に上りついたとき、三角点を探し、その設置に至る労苦を偲び、また山頂に登れた喜びの発露として、ソッと物言わぬ御影の頭に手を触れてみるものです。

これまで「第三の男」「ローマの休日」「荒野の決闘」「シェーン」「用心棒」「野菊のごとき君なりき」など、繰り返し観ている名作の数々。
「剣岳 点の記」はその列に加えられそうな一作になりそうで・・・。

キットまた観る!

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映画「劒岳 点の記」を観る

200年7月7日

その制作を知ってから待たされること2年。
ようやく先日、「新宿・バルト9」で観ることができました。

待たされただけのことがある出来栄えです。

名高い名キャメラマンだった木村監督作品だけあって、特に山岳シーンの圧倒的な画面は息をのみます。

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内容は・・・
もともとは非常に地味な仕事である「国土測量」が主題です。

それではドラマになりにくいですから<新田次郎>の原作はこれに「日本山岳会」との初登頂争い、という要素を入れました。

映画ではさらにドラマ性を加味しています。
当時、ただ一つ空白になっている「剣岳」の周辺を埋めることを使命とする「陸地測量部」
陸軍の威信にかけて、山岳会に遅れをとるまいとする陸軍。
当時の一般の人には理解し難い「山に登る」ことを目的として「剣岳」に挑む「日本山岳会」
「禁忌」の山、剣に登ることをためらう地元のこころの揺らぎ。

これらの要素が縦、横の糸になり、綾なす人間ドラマ。

測量手<柴崎芳太郎>、案内人<宇治長次郎>、日本山岳会<小島烏水>などの人物造形も良く出来てるように思います。
自己抑制的で、互いを認め、相手の功を素直に称える明治人の気質が実に爽やかに描かれ、感動的場面が続きます。

柴崎が一度目に剣に登頂したこと、その直後に山岳会のパーティが登頂したことなど、「登山史」上の史実とは随分違ったものになっています。

でも、映画はエンターテイメントの世界。
ドキュメントではないからそんなことは目くじら立てることはないでしょう。

この種の映画としては、リアリティもあって丁寧に作られていると感じます。
ただ、映画でもTVドラマでも常に気になるシーンがここでもありました。
それは重いザックを背負うとき、いとも軽々とヒョイと担ぎ上げてしまうことです。

私は昨今の役者についてはまるで無知ですが、印象ではキャスティングも当を得ているように思えました。

映画の雰囲気作りにかかせない音楽は<ビヴァルディ>の」四季」を初めとする「バロック音楽」でした。
これが不思議に合うのですね。

とにかく、もう一度見たい、と思える映画に久々に出会えました。

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2009年・上期の山行足跡

2009年7月2日

後期高齢者入りした今年はアンチ・エージングの試みとして、これれまでしたことが無かった年間の山歩き日数100日超えを目標にたてました。
この何年か、山歩き日数が自分の年齢を上回ること(これを私はエージシュートなどと一人よがりの言い方をしていますが・・・)を目標にしてきて、曲がりなりにもクリアしてきました。
その経験から、もう一踏ん張りすれば何とかなるのではないかと・・・

ところがこれが案外、そう簡単ではないのです。
どうしても外せない用事がある、天気が悪いなどの理由で、山に入れる日(可処分日)が以外に取れないのです。

さて例によって質より量の6月までのラインアップです。

01月02日  武蔵五日市~奥多摩・神戸岩~大ダワ~鋸山~鋸尾根~奥多摩駅
    07日  赤城・北口登山口~黒檜山~駒ケ岳~大洞
    11日  箱根・明星ヶ岳~明神ヶ岳
    14日  奥多摩駅~本仁田山~鳩の巣駅
    18日  軍畑駅~奥多摩・高水三山~沢井駅
    20日  正丸峠駅~奥武蔵・伊豆ヶ岳~子の権現~吾野駅
    25日  国民宿舎・つくばね~筑波山~筑波神社
    29日  赤城・駒ヶ岳~黒檜山

02月04日  赤城・黒檜山
    09日  皆谷BS~奥武蔵・笠山~堂平山~白石峠~白石車庫BS
    13日  石老山入り口~石老山~大明神山~ピクニックランドBS
    15日  杖突登山口~守屋山往復
    19日  名郷BS~蕨山~藤棚山~さわらびの湯

03月01日  北八ヶ岳・北横岳
    05日  矢倉沢BS~箱根・矢倉岳~万葉公園~地蔵堂BS
    11日  地蔵堂BS~金太郎コース~金時山~足柄峠~地蔵堂BS
    12日  橋場BS~奥武蔵・大霧山~定峰峠~定峰BS
    15日  道の駅・大和~米沢山~笹子雁ヶ腹摺山~道の駅・大和
    17日  猿橋駅~百蔵山~猿橋駅
    22日  道志・今倉山~菜畑山
    24日  天神平から谷川岳
    27日  赤城・地蔵岳~長七郎

04月03日  三国山~生藤山~和田峠~陣馬高原口
   05日  ヤビツ峠~三の塔~塔ノ岳~大倉尾根~大倉
   07日  谷川岳・旧道~芝倉沢出合まで
   10日  谷川岳・マチガ沢 ~シンセン沢出合まで
   12日  角間山 ~単独ラッセルで角間峠までしか行けず。
   16日  三国山~熊倉山~浅間峠~日原峠~人里
   19日  鶴峠~三頭山~大沢山~都民の森
   23日  赤城・コフタ山 ~深山から周回
   27日  四万・日向見温泉から不納山往復
   29日  鹿沢温泉から角間山往復

05月01日  谷川岳・西黒尾根中間部まで~一の沢下降
    03日  深山から赤城・鈴ヶ岳一周
    10日  矢立石~日向山~錦滝
    14日  美濃戸~北沢~赤岳鉱泉~中山乗越~行者小屋(泊)
    15日  地蔵尾根~赤岳~文三郎道~行者小屋~南沢~美濃戸 
    19日  棡葉窪~沢上り
    21日  田野景徳院~曲沢峠~大谷ヶ丸~米背負峠~大蔵沢 
    26日  霧降高原~子丸山~赤薙山~丸山~八平ヶ原~霧降高原
    28日  中越・下権現堂山

06月01日   歌ヶ浜~阿世潟峠~奥日光社山往復
   02日   歌ヶ浜~半月峠奥~半月山往復
   09日   北八ツ・三ッ岳~北横岳ヒュッテ (宿泊)
      10日   北横岳~大岳~双子池~雨池峠
   13日   焼山峠~小楢山往復
   19日   菅平牧場~四阿山~根子岳~菅平牧場
   23日   赤城・五輪尾根~出張山~薬師岳~大沼
   26日   加仁湯~鬼怒沼往復
   27日   高峰温泉~水ノ塔矢山~篭の登山~池の平~高峰温泉
   29日   深山~関東ふれあいの道~出張峠往復

ということで半年で日数が 51日。
後半このペースで行ければ100日に到達するのですが・・・

ところで、年間で3桁、というとたいしたものだと思われるかもしれませんが、広い山の世界。そんなの児戯にひとしく、掃いて捨てるほどあります。

最近目にしたのは『山の本』で群馬のN・Gさんは年間の山行回数が400回ほどになることを知りました。
仮に毎日登ったとしても365日。
社会生活していればしがない浮世のお付き合いなどで山に登れない日もあるでしょう。
そうすると一日で2回登る、という日もかなりあるはずです。
午前中一山登り、お昼を自宅でして、午後また山にお出かけになるのでしょうね。
こうなると趣味、というより「業」とも思えます。

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