年の瀬に『草すべり』の静謐に浸る
2008年12月26日
強い寒気の吹き出しで、谷川連峰を越えた雪がこの山里にも降りました。
初雪です。
ただいまの積雪量は5cmほど。
まだまだ積もりそうです。
昨日までの明るい世界がモノトーンで閉鎖されました。
動きを封じられて、読み残しの本を開きました。
南木圭士(なぎ けいし)さんの『草すべり』
書名からこのところ読んだ『還るべき場所』や『聖域』などと同じ山岳小説かなと思っていました。
確かに登山(山歩き)を題材にしているのですが、実は繊細な心理描写を味わえる作品で稜線を吹き抜ける風のような清涼感を覚えました。

作者は病院勤務医で、「50歳の誕生日に、なにかの発作に襲われたかのごとく、」登山靴を買い、山を歩き始めた、そうです。
それから浅間山一帯の山を歩いたことが下敷きになってこの気高い作品が生まれました。
どのページを開いても、まるで文章のお手本のようなフレーズが並ぶのです。
たとえば
「あらためて、眼前に展開風景に見とれる。
こぶしの花、三十年間住んでいる佐久平、千曲川、そして、背景のすべてをしめる浅間山。近景から遠景に視線を移してゆくと、これらを描写しようとする行為のすべてが、絵も写真も言葉も、思えてきて、心地よい虚無感にうながされるまま首を垂れた」
あるいは
「体の芯で確かな熱が発生し、全身の汗腺から汗が噴き出る。サウナに入って無理に搾り出す汗とはまったく異質な、からだがまっとうな代謝を行った証拠としての汗は、たったいまここに、まぎれもなく自分があるという事実をいかなる言葉より雄弁に保証してくれる。」
山の経験は私の方が豊富かもしれませんが、とてもこうした透徹した一文はものに出来ません。
つられてこの作家による、映画化されている「阿弥陀堂だより」も読んでみました。
それなりのドラマはあるのですが、沈潜する思惟はかわりません。
登場人物の素朴な気高さが見事です。。
「山と渓谷」12月号に<笠ヶ岳から槍ヶ岳>への2泊3日の紀行を発表されていますが、これがまた読ませます。
その中の一節
「歌でも小説でも、ひとが存在するはかなさの本質をとらえた一言半句を持たない作品はあっけなく風化するのだ」
たかが山歩きなのに、どうしてこんなフレーズを紡ぎだすことが出来るのでしょうか。
今年の残る日にちも少なくなって、世の中は何かとなく気ぜわしいようですが、そんなときだからこそ<南木さん>が生み出す静謐の中に浸れるなんてチョット贅沢な気がします。
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